◆◆江戸時代 ゆかりの地

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江戸城 大奥の生活
 高柳金芳 雄山閣 

2005.10

 高柳金芳 ・・著書に『徳川妻妾記(さいしょうき)』 『御家人の生活』などがある

1.大奥について・・千代田城での3つの区域は厳重に区別されていた

○表・・幕府の政庁にあたる所 

○中奥(なかおく)・・官邸、将軍は1日の3分の2はこの中奥で暮らしていた。いろいろな行事で精進潔斎の日が1ヶ月に10日もあり、それ以外の日に奥泊まりした。 

○大奥・・将軍の妻妾が暮らす私邸で男子禁制、外界と遮断され、女中のみならず将軍の正夫人でさえ生涯、一度も大奥から出られない人もいた。


2.淋しい京都からの公家の正室

家康の祖母、華陽院から十四代将軍家茂夫人・和宮(仁孝天皇の皇女)に至るまで、すべて政略結婚にすぎず形だけの悲しい運命にあった。皇族出身の者が武家の世界にとけ込むのは大変な苦労があった。朝廷側の正室は将軍の子を宿すことはできなかった。

抵抗した和宮・・・和宮は意に添わず、婚約を解消させられて、いやいや徳川家に入ったが、大奥で髪型や、呼び名(宮様)、しきたりをすべて御所風にして、武家風の大奥と対抗したという。和宮と将軍が対面するときは、将軍から先に挨拶したという。周囲の反感も招き、天璋院(十三代家定 正室)と衝突する。感情のもつれから、天璋院は二の丸に移ったという。


3.元気のいい、お伝の方(綱吉の側室)・・庶民感覚のたくましい側室!・・鶴姫、徳松出産

綱吉側室のお伝の方は、父親が黒鍬者と呼ばれた雑役に近い世襲制の仕事、兄はばくち打ちで(お伝が世継ぎを生んだ以降にばくち仲間に殺された)高貴な家柄とは言えないが、機転の利くたくましさが綱吉の寵臣、牧野備後守貞成(妻阿久里、娘安子)の目に留まり側室として推挙された・・・・という一説もある。(綱吉が白山御殿の散歩中、侍女が火鉢をあやまって枯れ芝に落とした際、風が強くみるみる火が燃えさかったという。そのときあわてふためく女中をよそに、お伝の方は着ていた小袖を脱ぎ捨て、火に掛けて、水を注いで鎮火させたという。)

二人の御落胤をもうけて権力は増大したが、徳松が5才で他界し世継ぎの母親となることはできなかった。


4.将軍と側室の寝所に、監視役がふたりも・・4人で同衾という馬鹿げた風習は「柳沢騒動」から

目的・・将軍の安全のため、指名された側室は事前に凶器がないか、世継ぎが将軍と誰の間にできたのかなどのチェックのため。

添い寝の監視役は、将軍に背を向けて横になり、寝ることは禁じられていたそうです。
特に綱吉の時代の「柳沢騒動」があってから
@将軍の長子相続の伝統が破られるのを防ぐため 
A
側室や妾による寝所での不正な政治介入を防ぐため・・・
チェックが厳しくなったそうです。


5.「柳沢騒動」とは・・映画や舞台で何度も上演されている歴史事件・・

綱吉の寵臣柳沢吉保は、宝永元年(1704)に、二十二万石の甲府城主となり、大出世を遂げた。吉保は妾の染子を綱吉の寝所に送り、
染子を介して甲府百万石を賜るべく将軍のお墨付きを入手させた。 
世子のなかった綱吉と染子の間に生ませた吉保の長男、吉里へ百万石(ひいては将軍職後継の座も)を与えようとした。

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