万葉人物の本

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「落日の王子・蘇我入鹿」
上・下
 
黒岩重吾 文春文庫 (2007.2.9)

●黒岩氏の古代史小説の魅力・・・説得力ある古代史とロマンあふれる叙事詩の世界


●女帝を愛した入鹿・・鬼になれなかった入鹿の悲劇
 
黒岩重吾
大正13年(1924)年〜平成15年(2003.3.7) 大阪生まれ。同志社大学卒業後、様々な仕事に就く傍ら文筆活動をし、『背徳のメス』で直木賞を受賞しました。晩年は古代史小説に重点をおき、昭和55年、『天の川の太陽』で吉川英治文学賞を受賞しました。「落日の王子」「聖徳太子」など数多くの古代史小説をのこしました。歴史浪漫の作風が評価され、平成4年に菊池寛賞を受賞しました。黒岩氏は古代史小説の第一人者でした。

『落日の王子・蘇我入鹿』は、皇極女帝と入鹿の恋が盛り込まれた古代史ロマン小説。『天の川の太陽』『紅蓮の女王』に続く古代史シリーズ第3弾として執筆された小説です。本小説は、舒明12年(640)にはじまり、蘇我入鹿が権力を手中にしてのぼりつめてから「乙巳のクーデター」(皇極4年・645 大化改新)までの激動の5年間が、力強く書かれています。


★いくつものドラマチックな山場で小説が構成されています★

@舒明13年(641)3月、百済・武王亡くなる

百済の政変・クーデターが起きる・・王家内部の争い

A舒明13年(641)10月、舒明天皇が亡くなる

B皇極元年(642)年1月皇極女帝の即位

皇后の宝皇女(たからのひめみこ)が大王となる

C皇極元年(642)年10月、高句麗のクーデター

大臣が王を殺し、独裁者となった

D皇極2年(643)3月、入鹿、大臣となる

父・蝦夷が仮病を使って入鹿に大臣の位を譲る

E皇極2年(643)9月、女帝、飛鳥宮・百済大寺造営の詔発布

F皇極2年(643)11月、斑鳩宮襲撃

大王の地位をねらい、入鹿にはむかう山背大兄皇子一族を滅亡に追い込む

G皇極3年(644)、蘇我蝦夷・入鹿邸、甘樫丘に建設着工

H皇極3年(644)夏、中大兄皇子・中臣鎌足を中心とする入鹿打倒勢力が密かに結成される

G皇極4年(645)、6月12日、「大化改新」

飛鳥板葺宮で仕組まれた新羅朝貢の儀で、参列した入鹿が皇極女帝の前で暗殺される


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★緊迫していた国際情勢と、入鹿もクーデターを起こしかねないという危機感★

唐・新羅に威嚇されていた百済・高句麗では相次ぎクーデターが起きていた。特に642年10月、高句麗に起きたのクーデターは、大臣が王を殺し、独裁者となった・・という影響で、入鹿も大王家を転覆するかもしれないという危機感が大王家や大王家の支持者、反蘇我本宗家の豪族の間で高まった。

★女帝を愛したために、独裁者になるタイミングを逸した入鹿★

小説の中で、何度も書き記されていること・・「女帝でなく男王だったら、入鹿はとっくに暗殺していた。女帝なのでためらった。中大兄皇子を大王に即位させてから、大王を暗殺し自分(入鹿)が独裁者となる予定だった・・。」意中の女帝なのでクーデターができなかった入鹿・・これが自分の寿命を縮める結果になった。

★男女の仲だった入鹿と皇極女帝・・中大兄皇子が入鹿を憎んだもう一つの理由★

宝皇女(たからのひめみこ・皇極女帝)が生んだという漢皇子(あやのみこ)は一般的に、用明天皇の孫にあたる高向王(たかむこおう)との間にできた子とされています。その後宝皇女は36才の時、欽明天皇と再婚しました。

しかし本書での漢皇子は、入鹿と
皇極女帝の間に生まれた子・・として扱われています。黒岩氏の本文での説明によると・・「本来なら『皇極即位前記』に高向王・漢皇子の記載をしなければならないところを『斉明即位前記』に持ってきたのは舒明天皇が亡くなってから漢皇子を産んだからであろう」「漢というのは蘇我氏につく名である」・・となっています。漢皇子(あやのみこ)が入鹿の子だったら中大兄皇子はいっそう自分の立場が危機的だったと思います。

入鹿との間に皇子があったかどうかはさだかではありませんが、入鹿と女帝が情を通じていたことは書物に記されているようです。

★それぞれの利害関係が一致して暗殺計画が練られた★

中臣鎌足が政治の中心に踊り出るには、入鹿は自分の出世を阻む壁でした。鎌足も自らの野望の中で中大兄皇子を取り込んでいきました。そして、蘇我本宗家に常々反感を抱いていた豪族(蘇我倉山田石川麻呂・阿部倉梯麻呂)が多数いて暗殺計画が成功しました



【感想・・突然の惨劇にショックを受けた女帝】

昨今の入鹿邸の発掘調査が進む中で、入鹿が「大王家を倒して独裁政治をねらっていた」という説は薄らぐ兆しにあります。唐との親和政策を推奨する入鹿とそれに反対する中大兄皇子らとの外交政策での対立が原因だったのではないかという説が浮上してきました。

入鹿が蘇我本宗家のホームグラウンドである飛鳥の地に(女帝を取り込んで)板葺宮の建設をしました。さらに宮殿を見下ろす形で甘樫丘に蝦夷・入鹿親子の邸宅が築かれたので、反対勢力にとって入鹿親子は脅威の対象となってしまったと思う。「外敵から宮殿を守るための甘樫丘の要塞」が、「大王家をねらう要塞と誤解されたのではないか」と思う。

入鹿は自分の地位を不動のものにしたいという希望はあったものの大王家の転覆は考えていなかったと思う。下心や警戒心が無いから、新羅朝貢の儀にも参列したのだと思う。
小説の中で、入鹿は父・蝦夷の危険だから行くなという反対を押し切って朝貢の儀に出向く。それは、事前に届いた女帝からの「会いたい・・」という手紙に誘われて・・。実際に入鹿に謀反の意志が無かったとしたら、645年の惨劇は実に気の毒である。

朝貢の儀の場で全身血まみれになった入鹿は、皇極女帝の前に進んで「吾(わ)を罠(わな)に掛けたな、宝皇女、吾を罠に・・」(本文)と恨みながら亡くなっていきます。女帝は、目の前で起こった惨劇に存命中終始悩まされ続け、自分を裏切ったと誤解したままこの世を去ったかつての愛人・入鹿を思い、築紫の地で錯乱状態で亡くなったという。

斉明期に造られた酒船遺跡(亀形石造物など)は、儀式用であったり不老長寿の神仙思想の他に、
「入鹿の鎮魂のために・自らの魂を清めるために造られたのかな・・」
と思いました。何かの形にしないと斉明天皇(皇極女帝)は心が鎮まらなかったと思います。

(写真;入鹿が暗殺された飛鳥板葺宮・・遠くに邸宅があった甘樫丘も見える・斉明期の亀形石造物)


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