【本・BOOKな話題】(2005.6.30〜)・・・2007.1
 
 
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◆BOOK25・「
天翔る(あまかける)白日 小説大津皇子

●全てに秀でた悲劇の皇子
 
黒岩重吾 中央公論社
 (2007.1.1)

黒岩重吾・・大正13年(1924)年〜平成15年(2003.3.7) 大阪生まれ。同志社大学卒業後、様々な仕事に就く傍ら文筆活動をし、『背徳のメス』で直木賞を受賞しました。晩年は古代史小説に重点をおき、昭和55年、『天の川の太陽』で吉川英治文学賞を受賞しました。「落日の王子」「聖徳太子」など数多くの古代史小説をのこしました。歴史浪漫の作風が評価され、平成4年に菊池寛賞を受賞しました。黒岩氏は古代史小説の第一人者でした。


この小説は昭和58年に出版されました。物語は天武8年(679)5月6日、皇太子決定の布石となった「吉野の盟会」から始まります。天武天皇・鵜野讃良(うののさらら)皇后をはじめ、草壁皇子(18才)・大津皇子(18才)・高市皇子(たけち・26才)・河嶋皇子(23才)・忍壁皇子(16才)・芝基皇子(しき・16才)と15才以上の皇子6人がいちどうに揃います。

【なぜ大津皇子が謀反の罪にかけられたのか】

「吉野の盟会」
には大津皇子と親しくしていて味方(みかた)だった御方(みかた)皇子は出席していません。御方皇子は父は天武天皇ですが、母は近江の豪族の娘で釆女であったかことから他の皇子に比べて重用視されていませんでした。身分の低い母を持つ高市皇子は皇太子のリストからはずれます。河嶋・芝基皇子は妃を天武の娘からもらっていますが、父は故天智天皇なのでリストからはずれます。天武天皇・鵜野讃良の皇子である草壁皇子は最有力の皇太子候補です。

@大津の母の早い他界・・大津皇子の母は、皇后鵜野讃良の姉(大田皇女)で大津皇子が幼少のころ既に亡くなってしまっていて大津皇子の後ろ楯とならなかった・・運母の早い他界

A大津の身分が高い・・大津皇子は皇位継承権で草壁の次ぎに位置しているので、皇后・草壁派から命をねらわれやすい

B大津の人望が篤い・実力がある・・天武の政策に不満な臣下には大津は驚異

大津皇子は悲劇の皇子として古代史上人気の高い人物です。容姿・知性・才能・体力に優れ人望も篤い。ひ弱で、母である皇后の操り(あやつり)人形のような草壁皇子とは比べ者にならないくらい大津には人心が集まっていた。天武12年(683)、皇太子草壁と並び政治を執った時大津の実力がおおいに注目されるに至った・・出る杭は打たれる・・皇后・草壁派から圧力をかけられ日頃から追い込まれていた。天武の律令政策は私有地を差し出す豪族の反感を買っていた。豪族にとって不利益な政策・・公地公民の推進は、政治能力に欠ける草壁の方が安心感があった。

C皇后の実績による絶対権力・・672年の壬申の乱で、夫の天武と命がけの苦労を共にした実績が大きい。天武天皇にとって大きな戦いに共に戦った皇后の意見や意向は重視せざるをえなかった

D皇后に弱みのある天武天皇・・天武天皇は17才ぐらいの側室もたくさんいて、次々に子どもを生ませていたので皇后に対し弱みがあった。天武の女性関係も皇后の権力を強める結果となった

E大津の妃の血筋・・大津の妃の山辺皇女の父は天智・母は蘇我赤兄の娘の常陸娘(ひたちのいらつめ)。蘇我赤兄は有馬皇子事件と関わりのある人物で鵜野皇后勢力から嫌がられていた

F父の死・・天武15年(686)9月9日、56才で天武天皇崩御。大津の運命は父の死によってさらに追い込まれていった


【感想】

皇后・鵜野讃良は勇敢で政治的な実力があったのでその実力のおかげで草壁皇子は皇太子になれたと思います。物語には大津皇子が反勢力からどのような屈辱を受けてどのように追い込まれていったかが克明に綴られています。大津は追い込まれて謀反を計画せざるを得なかったということがとてもよくわかりました。謀反を計画しなくても絶えず圧力をかけられ命をねらわれていたことがわかりました。


天武3年(674)15才で伊勢神宮の斎宮となった姉・(大伯皇女・おおくのひめみこ)と大津が亡くなる前に伊勢で再会する場面も悲しいものがありました。斎宮にされた姉も悲劇です。大津の姉が有力な皇子と結婚して、大津側の勢力が拡大するのをおそれた皇后の助言によって伊勢に追いやられたのだと思います。大津にとって姉が遠くに行くというのはこの上なく淋しいことだったと思います。壬申の乱で勝利して天武が律令政治を推し進めていく段階で、既に大津姉弟は皇后によって厄介視されていたのだな・・と思いました。

筆者は、大津が謀反の計画を親しくしていた河嶋皇子に言ってしまったのは、「大津の若さによる」・・とあります。友人が自分の保身のために謀反を告知するとは夢にも考えなかった大津の人を疑わない・人の良さがあだになってしまったのだなと思いました。天武15年(686)10月2日に謀反が発覚し、翌日10月3日絞首刑となり、25才で大津はこの世を去ります。天武天皇は自分が亡くなってから1ヶ月足らずで、大津が天国にやってきて嘆き悲しんだと思います。当時、大津を慕う人物が多かったと伝わっているので嘆き悲しんだ人が多かったと思います。1300年以上経過した今でも、悲劇のヒーロー・大津皇子を慕う古代史ファンの中で永久に生き続けているのだと思います。(写真;大津皇子がひっそり眠る二上山)

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