万葉人物の本

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裸足の皇女」2(はだしのひめみこ)

永井路子 文藝春秋
 2006.1


著者 永井路子・・大正14年(1925)、東京に生まれる。直木賞、女流文学賞、菊池寛賞を受賞。歴史に対する新鮮な解釈や確かな時代考証に定評がある。『一豊の妻』『平家物語の女性たち』『噂の皇子』『歴史をさわがせた女たち』(日本編・外国編・庶民編)『新・歴史をさわがせた女たち』など多数の著書がある。


●短編「裸足の皇女(はだしのひめみこ)」・・本のタイトルになっています
裸足の皇女とは、山辺皇女のことです。「大津皇子事件」の大津皇子の妃で、殉死した皇女です。
物語は、胡奈女という女の口ずさむ
「むみりえか はらあくきさま・・」という不思議な子守歌で始まります。蘇我赤兄や赤兄の孫にあたる山辺皇女の会話や、山辺皇女と大津皇子が知り合ったころの様子、そして大津皇子事件に至るまでの経過が物語化されています。事件を知った皇女は、飛鳥の先の訳語田(さわだ)まで髪を振り乱し裸足で追いかけて、24才で死を賜った夫の大津皇子におおいかぶさるように、殉死したという。「純愛を貫いた」実話の物語です。そして物語の最後に子守歌の秘密が明かされます。

◎人物とその背景
大津皇子(663〜686.10月3日)
天武天皇の第三皇子。母は天智天皇皇女の大田皇女。この母は667年、大津が4才の頃、亡くなる。壬申の乱(672年)のころはまだ8才であった。身体容姿、学問にすぐれ女性にモテモテだったという。悲劇の皇子として現代でも人気があるようです。

山辺皇女(663?〜686.10月3日)
父は中大兄皇子、母は蘇我赤兄の娘の常陸娘(ひたちのいらつめ)。壬申の乱の時は大津と同じぐらいの8才で母と共に天武の本拠地、飛鳥まで連れて来られた。

○大津皇子と山辺皇女の婚姻

メリット
・・壬申の乱(672)のしこりを無くすためのこの上ない組み合わせだった・・・大津は父が天武、山辺は父が天智。大津が天皇に即位して山辺が皇后になるはずだった・・・。

デメリット・・@山辺皇女の祖父は蘇我赤兄で、有馬皇子を陥れた人物とされている。天武の妃( 菟野皇后・後の持統天皇)たちは、赤兄の血筋を嫌っていた。
A婚姻を良しとしない勢力があった・・菟野皇后は皇位を大津皇子でなく、子の草壁皇子に継承させたがっていた。

○大津皇子事件(写真;大津皇子が眠る二上山)

朱鳥元年(686)9月9日、天武天皇が崩御したあと、10月2日、大津皇子のいとこでもっとも信頼のおける川島皇子の裏切りによる密告で謀反の罪をきせられた。翌日の10月3日、訳語田(さわだ)邸で大津は自裁した。草壁を天皇に押す勢力の陰謀という見方もある。
辞世の句は
「もも伝ふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ」
(磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日限りで、私は死んでいくことであろう)



○有馬皇子事件
孝徳天皇の皇子。天皇亡きあと、皇位継承の権利があった皇子は蘇我赤兄の口車に乗ってうっかり謀反の計画に相づちを打ってしまった。658年、謀反の罪で19才の若さで処刑され、大津皇子とともに悲劇のプリンスで名高い。
辞世の句は
@「家にあれば 笥(け)に盛る 飯を草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」

A「磐代(いわしろ)の 浜松が枝を 引き結び 
真幸(まさき)くあらば また還(かへ)り見む」

物語の最後に「むみりえか はらあくきさま・・」という子守歌の秘密が明かされます。それは有馬皇子の辞世の歌を逆さにしたものでした・・「・・・真幸(まさき)くあらば また還(かへ)り見む」有馬皇子の首謀者が「裸足の皇女」の祖父にあたる蘇我赤兄、有馬皇子事件が大津皇子事件とも関わり、物語の伏線にもなっていました・・。山辺皇女は自分の血も大津事件に関与したと思って、責任を感じたのかな・・。いずれにせよ大津への純粋な愛情なしには、殉死はできなかったと思います。


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