万葉人物の本

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「万葉時代のさらりーまん」

太田隆次著・悠飛社 
2005.6


著者、太田隆次(りゅうじ)・・1959年、京大法学部卒業。国際人事研究所所長

万葉の時代・・舒明天皇、627年即位〜万葉集大伴家持最後の歌、759年までの130年

●奈良の都は男の人があふれていたそうです。奈良の都は女の人の奪い合いだったのでしょうか。

当時の日本の総人口は推計・・600万人。
うち、都にいた人・・20万人。男の人が16万人で女の人が4万人だったそうです。どうしてこんなに男の人が多かったかというと、中国に習(奈良)って、官僚を都に集中させたそうです。役人・・約1万人(五位以上の高級官僚は700ねん代のはじめ125人)。また、宮殿建築や土木作業をする男の人もいっぱいいたそうです。

●地方へ転勤になった国司・大伴家持(万葉集の編纂者)の悲哀の歌


「しなざかる 越に五年 住み住みて 立ち別れまく 惜しき宵かも」 (万葉集 4250番)

訳・・ 都から遠いこの越前の国に五年住み着いて、別れていかねばならないと思うと名残惜しくてなりません

●「十七条憲法」(604年制定)は公務員の服務心得だったそうです

十七条のうちの五番は賄賂の禁止、六番はへつらいと媚びの禁止なども盛り込まれています。八番は出勤時間について、朝早く出仕して遅く退出せよとあります。604年の頃は、時を知らせる鐘がまだなかったので日の出に家を出て、日の入りに帰るようにしたそうです。

◆647年・・当時の役人は
朝の4時に出仕して、お昼に退出したそうです。門の出入り口で毎回チェックされ、出勤状況が俸給にもひびいいたそうです。

●1300年前にもあった勤務評定・・「功過行能(こうかこうのう)」・・中国の能力主義をとりい入れていたそうです。

功」・・職務を達成したか 「過」・・過失はなかったか 「行く」・・行状、態度はどうだったか 「能」・・能力はどうか

この著書は、この他に現物支給(繊維製品)された俸給や、年休制度などについても詳しく書かれています。
正一位の俸給は三億円以上とか


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