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◆京都の和菓子店・甘味処◆ (2006.9月〜)



N06.粟餅所澤屋(あわもちどころさわや)
・・北野名物・粟餅
(あわもち)・・創業400年

上京区北野天満宮前 2006.10.8


●北野(きたの)に粟餅を食べにきたのよ。よくきたの〜

●粟(あわ)
と栗(くり)が似てるから粟(あわ)てちゃいます!

創業は天文(てんぶん・1532〜1555・後奈良天皇)年間の頃、農業を営む祖先が洛西の嵯峨野より自作の粟を持ってきて、粟を搗き餅にしてあんをつけて「粟餅」と称し北野天満宮の境内で販売しました。以後北野名物として世に知れることとなります。寛永15年(1638)発行の『毛吹草』に「山城名物北野粟餅・・」と記載があります。

その後、徳川5代将軍綱吉時代の天和2年(1682)、初代澤屋與惣兵衛が北野の亀の松の下で、杉皮葺の屋根に葭(よし)張の体裁の茶店を設け、この場所で代々粟餅屋を営むことになり、北野神社の御用達も承るようになりました。現在は12代の澤屋與惣兵衛が継いでいます。

初代の祖先
祖先は河内の住人でしたが、南北朝時代、南朝方から命を受けました。正平3年(1348)、河内四條畷(しじょうなわて)の戦いで亡くなった楠正行(くすのきまさつら)の首塚守護の為、洛西嵯峨野に越してきて、日々農作に身を費やしていました。北朝方・足利の探索が厳しいのでひっそり暮らしていました・・・その子孫が粟餅を作り始めたとういうことです。

◇楠正行(くすのきまさつら・1326〜1348)

南北朝(1336〜1392)の武将。楠正成の嫡男。1336年、湊川の戦いで父・楠正成が戦死した後も南朝方として戦う。1348年・河内四條畷(しじょうなわて)の戦いの際、楠正行は3千の兵で、北朝・足利方の高師直の6万の軍勢と戦って敗北し自害する。



●北野天満宮の前にお店があります。天満宮は学問の他に、農事信仰の神様でもあるので、五穀の粟を扱うのはこの地にふさわしくも思えます 

●入り口には粟(あわ)が展示されています

















●京都府100年(昭和45)を記念して、府内の各老舗(様々な分野の)に京都府の知事から表彰状が贈られました

●店の入り口・・この入り口で12代当主(澤屋與惣兵衛さん)やその家族が、その場で粟餅を丸め、あんこをつけてくれます

●店内のようす・・テーブルの数は7つぐらいで広さは10畳ぐらいです

●窓辺に粟の飾りもすてきです。この店ならではの
こだわりの装飾です
















●丸いあんこが3つと細長いきなこが2つの粟餅です。作りおきをせずその場で作ってくれるので、餅がやわらかくておいしかったです。餅の色が白だとおもったら、粟の黄色だったので粟(あわ)てちゃいました!(1人前500円)














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