奈良・京都・大阪・滋賀の
遺跡ニュース 2010・2011年
(bT0〜最新) 

●元々遺跡が好き・・・遺跡に接してタイムスリップ!

私が考古学に興味を持ったのは、大学1年の時からです。考古学研究会で遺跡の発掘をしたり、学生時代友達と明日香村を訪れて、周辺を散策していました。
発掘ニュースを簡単に綴ります。

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bT2 ●2011.7.7 

唐招提寺に新田部
(にいたべ)親王邸・築地塀跡出土

奈良市五条町13−46・唐招提寺(写真;平城宮跡の築地塀


奈良市の唐招提寺(天平宝字3年・759、鑑真和尚が創建の寺)で、寺創建以前にあった、奈良時代前半の新田部親王邸宅の築地塀跡が見つかったと、寺と奈良県立橿原考古学研究所が6日発表した。築地塀は寺の北限にあたり、発見された屋根瓦の文様から、新田部親王邸のものと判明し、唐招提寺創建当時もひきつづき、築地塀が使われていたとされている。

新田部親王(?〜735.10.24)は
天武天皇の第七皇子、母は藤原鎌足の娘・藤原五百重娘。政界の重鎮を務めた。

(写真;奈良市法華寺北町・海龍王寺の築地塀・・天平3年・731年光明皇后の発願により建立された寺)





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bT1 ●2010.12.10 斉明天皇陵の隣地・悲運の孫娘の墓出土

奈良県明日香村・牽牛子塚(けんごしづか)古墳


明日香村・牽牛子塚(けんごしづか)古墳(7世紀後半)で、斉明天皇(594〜661)の墳墓とされる南東隣地から、斉明天皇の孫で、中大兄皇子の娘・大田皇女(おおたひめみこ)の墓があったことがわかったと明日香村教委が9日発表した。飛鳥時代、斉明天皇陵に接して大田皇女を葬ったという『日本書紀』の記述に合致する。
悲運の大田皇女・・天武天皇の妻となり幼子二人を残し20歳代前半で亡くなる。幼子二人はやがて姉が伊勢神宮の斎宮となり、弟の大津皇子は謀反の疑いで自害する。大田皇女が早世していなければ、天武天皇が長生きしていたらこのような悲劇に至らなかったと思う。大田皇女の妹は持統天皇となり、姉妹で明暗を分ける結果となった。この大田皇女の墓の発見は人々に悲しみ
を誘う。



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bT0 ●2009.9.10 斉明天皇陵と確定・・決め手は八角形墳

奈良県明日香村・牽牛子塚(けんごしづか)古墳


明日香村・牽牛子塚(けんごしづか)古墳(7世紀後半)で、八角形の墳墓であったことがわかり、天皇陵に特有の形状であることを、村教委が9日発表した。八角形墳は、斉明天皇の夫・舒明天皇(桜井市)や、天武・持統天皇陵(明日香村)にもみられる。

これまで、同村の
岩屋山古墳や、高取町の車木ケンノウ古墳なども候補としてあがっていたが、この度の発掘により、墳丘北西部すその凝灰岩の切石の角度が135度であったことや敷き詰められた石の配置から八角形墳と断定された。

斉明天皇の死後の4年後の665年、長女の間人皇女(はしひとのひめみこ)が36才前後で亡くなり、斉明天皇と合葬されている。合葬された年は、『日本書紀』によると667年とされている。


【斉明天皇】(594〜661)

斉明天皇は、はじめ用明天皇の孫にあたる高向王と結婚し、漢皇子をもうける。後に舒明天皇の皇后となり、天智天皇(626〜672)、間人皇女(はしひとのひめみこ・・生年不詳〜665)、天武天皇(631〜686)を生む。


斉明天皇は二期(皇極天皇も含め、通算9年)にわたり、天皇として在位した。夫から息子への中継ぎとしての天皇だけにとどまらず、新羅対策や土木工事など、政治的にもその手腕を発揮した女帝である。

【・・・34代 舒明天皇→ 35代 皇極天皇(642〜645)→ 36代 孝徳天皇→ 37代 斉明天皇(655〜661)→ 38代 天智天皇・・・】


写真;亀形石造物(明日香村)・・斉明天皇が儀式に用いたとされる


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