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★その時歴史は動いた 

「秀吉の家族 弟秀長が演出したもう一つの太閤記」


(NHK 2006年9月13日放送)  
 

【豊臣秀吉を陰で支えていたのは沈着冷静な秀長、天下がとれたのは秀長がいたから・・とよく耳にしますが、秀吉に比べると秀長は歴史の舞台に華々しく出ることもなく、功績の割には知られていない部分が多いように思われます。番組を視聴しながら自分なりにまとめてみました】


秀長は農民として暮らしていましたが、秀吉が信長のもとで組頭になっておねと結婚した翌年の永禄5年(1562)、武士になって兄弟共に生きるよう兄の秀吉から請われます。秀長23才、秀吉26才の時でした。

◆秀長の功績◆

@永禄5年(1562)、美濃の斎藤氏攻めのとき、木曽川周辺にいた川並衆のとりまとめをした

木曽川周辺の川並衆は、信長・斎藤どちらの勢力にもつかず味方に引き入れるのが大変だったが、秀長の説得で戦いに協力してくれることになり木曽川を押さえることができた。説得の際、秀長は「みなさまは義侠心に富んだ方々です。美濃の平定は戦乱の世を無くすため」と述べ、決して兄の出世のためと利益をちらつかせなかったという。あくまでも誠実な心で説得にあたったという。永禄9年(1566)、秀吉は墨俣に一夜城を築き出世のチャンスを作っていく。後の永禄16年(1573)、信長は斎藤氏攻略に成功した。

A元亀元年(1570)4月、金ヶ崎城攻めの際、浅井に裏切られ撤退する時、「殿払い」をして信長の命を救う

決死の覚悟の殿払いを進んで申し出たのは秀吉だったが、追っての浅井・朝倉勢から一番危険な位置で戦っていたのは秀長隊だったという。天正元年(1573)8月、小谷城が落ちて浅井が滅び、その領地12万石(近江・長浜城)が秀吉に与えられる。

B天正元年(1573)、浅井の郎党をめしかかえ、今浜(後の長浜)の治安を良くした

浅井が滅びると、長浜はその郎党で暴動が起きたという。
秀長は力で押さえず、深い情で浅井の家臣を召し抱え助けたという。そうして長浜は落ち着きを取り戻したという。

C天正5年(1577)、毛利攻めで元浅井の家臣・高堂高虎が秀長の危機を救う

中国攻めの際秀吉は兵庫県の竹田城を攻め落とし、秀長を城の名代にして山陰道を押さえるように命令する。ところが間もなく、毛利援軍に襲われ城が奪い返され、秀長が窮地に陥る。その時毛利軍と果敢に戦って敵を蹴散らしてくれたのは、元浅井の家臣の藤堂高虎(とうどうたかとら)だった。藤堂は、秀長から以前に3倍もの加増をしてもらってその恩に報いる為に戦ったという。
秀長の日頃の温情が戦いの場で成果となってあらわれた。

D天正11年(1583)、秀吉の叱責にあまんじることによって、秀吉が部下の信頼を得る

山崎合戦の後、一番先に挑戦してきたのは柴田勝家だった。勝家との戦いで、秀長隊が留守をつとめたとき勝家軍に中川清秀が囲まれ討ち死にした。軍議で、「中川を見殺しにした」と言って秀吉は秀長を叱責するが、秀長は逆らわずにだまって受け入れたという。その光景を見ていた秀吉の家臣達は、
「秀吉は家臣をとても大切にしてくれる・・」と思ったそうです。

E天正14年(1586年)、家康を上洛させ、大坂城で「臣下の礼」を演出する

秀吉は上洛を渋る家康の元に妹や母を人質に出す。10月上洛した家康に、秀長は能を催したり、自分の屋敷に招く。そして前日の10月26日夜、秀吉は家康を訪問し、「明日
名前を呼ばれたら頭を下げて欲しい」と頼む。翌日、大坂城で家康は、臣下の礼(家来として頭を下げる・服従を誓う)をした。そして無事に秀吉の天下となる。この臣下の礼を演出したのは秀長だったという。


◆まとめ◆

写真;大阪城・花彩祭(大手門内側の秀吉の兜と、菊の千成ひょうたん)



★★秀長はいつも、
相手をせん滅させるのではなく、温情で敵をとりこんでいった。秀長には情けがある・・それは初めから武将ではなく23才まで農民をしていたので地に足をつけた生活が身についていて人の情けもよくわかるのだろう。秀長を追う事でもうひとつの太閤記が見えてくると・・・

★★秀吉の秀長への愛情

天正17年(1589)に秀長が病に伏せてから足かけ2年、秀吉は滋賀県・多賀大社に
病気平癒の宿願書を何度も送っているという。

秀長が身につけていた甲冑を調べたところ、兜の中から秀吉が天正15年に書いたお守りが見つかったという。そのお守りの一部には
「秀長加護」と書かれていたという。

◆◆感想◆◆・・秀長の功績は数知れず

●天正5年(1577)、石川県手取り川の上杉との戦いの時、秀吉は勝家と口論になり撤退して戦線を離脱した。この時竹中半兵衛の案で信長にお詫びの使者を送り、多額のお金を送って軍資金がないことを証明した。
この時の使者は秀長だった。丁重に謝ったのは秀長だった。

●秀吉が天下をとったあと、茶道具を諸大名に売り政治・経済の財にあてたのも秀長だった。秀吉は弟の政治的手腕をほめたという。

●秀長あっての秀吉だったのかもしれない。その証拠に秀長が亡くなってから舵取りを失って、「利休切腹・秀次事件・朝鮮出兵・・」と秀吉は狂ったように暴挙を重ねていく・・

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