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奈良・京都・大阪・滋賀の遺跡ニュースの記録・2006年U(NO26〜最新) 

●元々遺跡が好き・・・遺跡に接してタイムスリップ!

私が考古学に興味を持ったのは、大学1年の時からです。考古学研究会で遺跡の発掘をしたり、学生時代友達と明日香村を訪れて、周辺を散策していました。
保存してある新聞記事の中から、メモ程度に簡単に綴ります。

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NO32.●2006.11.22


「飛鳥京望む貴族邸宅」・・明日香村・竹田遺跡
奈良県明日香村の竹田遺跡で7世紀後半と見られる大型建物10棟の遺構が見つかり、天武天皇の皇子・新田部親王邸との関連が示唆されている。飛鳥寺からわずか200mの超一等地。立派な建物跡には生活に使う土器が多数見つかり貴族の邸宅だったことが推測される。(京都新聞 11.22朝刊より)





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NO31.●2006.11.21


「平安時代の僧侶の食生活を書いた木簡」・・奈良・西大寺

奈良市・西大寺の境内で、10世紀末の食材に関した木簡が発見された。僧侶に酒を支給した記録や西大寺の菜園からウリやナスが届いたり、カブを洗って漬けた人物に米を支給したりする記録もあり当時の寺の食文化の一端が伺える。(京都新聞 11.21朝刊より)




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NO30.●2006.10.13

「最古の万葉仮名木簡出土」・・
難波宮跡(大阪市中央区)

皮留久佐乃皮斯米之刀斯(はるくさのはじめのとし)

大阪市の難波宮跡で、万葉仮名で和歌を書いた木簡(640〜650)が見つかった。和歌としてはこれまで、徳島県の観音寺遺跡の木簡(7世紀後半)が最古とされていたが、今回の発見で和歌としても万葉仮名としても30年ほどさかのぼる画期的な資料となった。「春草の・・」は和歌の枕ことばのような意味合い持ち、歌の冒頭部分と見られる。木簡は途中から折れている。
発見場所は難波宮南西の隅で宮を造営するため埋められた谷。水分が多かったので木簡が残ったようだ。一緒に出土した土器の年代と照らし合わせて640〜650年のものとわかった。

【ふたつの時代(前期・後期)に宮殿がありました】

@前期難波宮・・孝徳天皇が大化改新・645年の年に飛鳥から遷都。650年に完成した難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)とされています。
(間もなく都は飛鳥に戻り、難波宮捨てられたが、天武天皇が副都として整備した。しかし686年、失火しほぼ全焼した)

A後期難波宮・・726年から聖武天皇が復興した難波宮をさします。
(793年ごろ難波宮が廃止されたようです)・・・現在9万平方mが国の史跡となっています。
















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NO29.●2006.10.6
「恵美押勝(藤原仲麻呂)の追跡路・幅18mの田原道発見」 

滋賀県大津市・関津遺跡


●奈良時代の道路で最も大きいハイウェー ●逃げる恵美押勝、追う官軍 

●自分が整備した道路で先回りされるなんて・・落とし穴をつくっとけば良かったなぁ・・・


7〜8世紀の遺構が多く発見されている大津市関津遺跡で、続日本紀(797)に登場する「田原道・たわらみち」とみられる大規模な道路跡とそれに付随する建物群(道路の両脇に30棟分の高床式の柱跡)が見つかった。

★田原道・・奈良の平城京と近江を結ぶ幹線道路で幅18m、長さ250m。当時の人や物資の流通を知る手がかりとなる。

続日本紀と田原道・・天平宝字8(764年)、藤原仲麻呂が反乱に失敗して敗走したとき、官軍(朝廷軍)が「田原道」を経て先回りする・・という記述があります。

★正倉院の武器が見つかる可能性も・・
官軍は正倉院を開け、弓や太刀を持ち出したと文献に残っているので武具もみつかるかもしれません。

皮肉な結果

恵美押勝(藤原仲麻呂)は、自らの権威を示すために保良宮(ほらのみや)を造営したとき、田原道(保良宮のメインストリート)を整備をした可能性があるという。押勝は一族郎党と共に、山道が多い幹線道路の田原道は選ばず、平坦な道が多い北陸道を選んで逃走したが、官軍に先回りされてしまった・・
しまった!

【恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱】

764年、称徳天皇に重用された僧・道鏡との政争に敗れ、クーデターを計画したが失敗し、仲麻呂一族は惨殺された


(産経新聞朝刊・2006.10.6より





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NO28.●2006.8.31が蒔かれたの石室の撮影に成功」・・
卑弥呼の鏡とされる三角縁神獣鏡も 
(大阪府高槻市・闘鶏(つげ)山古墳


●「魔除け(まよけ)と長寿」のために、ま・よけい(余計)をまいておくか・・


大阪府高槻市の闘鶏(つげ)山古墳(4世紀前半・全長86m・前方後円墳)で、市教委は、奈良文化財研究所の協力のもと1700年前の築造当時に迫る画像の撮影に成功しました。

石室は未盗掘でした。被葬者の頭蓋骨(一番奥)をはじめ、副葬品である短剣の木製柄、琴柱形石製品、巻き貝、銅の矢尻、卑弥呼の鏡と呼ばれる神獣鏡などがくっきりと撮影することができました。これは埋葬当時そのままの配列となっています。朱がまかれた石室内部の色も鮮明に残っており、当時の埋葬の儀礼様式も伺えます。

北側一面の三角縁神獣鏡は4年前に見つかった、京都府山城町・椿井(つばい)大塚山古墳のものと全く同じ文様の兄弟鏡であることがわかりました。


さらに今回の調査で、石室内部の結露、石材の崩落、木の根っこなど保存状態の悪化も進んでいることが判明しました。石室内は急速に湿度が増しているそうです。また第三の「カビ事件」が起きないように祈っています。(写真は読売新聞2006.8.31朝刊)



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NO27.●2006.4.7「平安農業カレンダー出土」 種まき・刈り取り・男女分担の方法など、稲作手順記す最古の木簡 (奈良県香芝市・下田東遺跡)









奈良県香芝市で出土した平安時代初期(9世紀初め)の木簡に、春の種まきから秋の稲刈り、農産物の販売までの流れを示す米作りの作業手順などが書かれていることがわかった。「古代の農業カレンダー」、男女で農作業を分担した様子を記しており、稲作の現場について記述された最古の木簡となる。荘園の管理者が書いたと見られ、当時の農業を知る貴重な資料となる。
当時は女性が種を蒔き、男性が田んぼの地ならしや、代かき、刈り取りなど力仕事を担うなど、男女が役割分担して農作業にあたったことがうかがえる。下田東遺跡一帯には親王・貴族の荘園があったとされ、田畑を管理した荘官らが、農作業や作物売買の管理記録を公文書形式の文書として残す際、下書きに利用した廃材らしい。(読売新聞 2006.4.7朝刊より) 




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NO26.●2006.3.24「馬蹄形(ばていけい)の周濠(しゅうごう)確認」 (奈良県桜井市・纒向(まきむく)石塚古墳)




前方後円墳の原形となった
纒向(まきむく)型」と呼ばれるタイプの古墳でも最古級とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)石塚古墳(3世紀前半、全長96m)で、墳丘を囲む周濠が馬蹄形だったことが確認され、市教委が23日、発表した。弥生時代の簡素な墳丘墓から、巨大古墳に移行する過渡期の周濠の原形とみられている。被葬者は初期大和王権の有力者と見られ、同型の周濠がその後、全国に広がっていることから、王権が地方に与えた影響力を考える上で重要な成果となる。(読売新聞 2006.3.24朝刊より) 



から舒明天皇の飛鳥岡本宮(630〜636年)の一部とみられる大型建物跡も初めて確認された。
「日本書記」によると、浄御原宮には、天武天皇が親王や諸王を招いた「内安殿」
と、遊戯や饗宴を催した「大安殿」、諸臣が集まった「外安殿」があったと記されている。

飛鳥京跡・・
7世紀の飛鳥時代の宮殿の総称。遺構は3層になっている

@上層・・浄御原宮と後飛鳥岡本宮 
A
2層目・・大化改新の舞台となった飛鳥板葺宮(いたぶきのみや)
B
下層・・飛鳥岡本宮


写真;飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)の内安殿とみられる石敷きの大型建物跡 読売新聞2006.3.8朝刊より






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