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奈良・京都・大阪・滋賀の遺跡ニュースの記録・2006年T(NO19〜25) 


●元々遺跡が好き・・・遺跡に接してタイムスリップ!

私が考古学に興味を持ったのは、大学1年の時からです。考古学研究会で遺跡の発掘をしたり、学生時代友達と明日香村を訪れて、周辺を散策していました。
保存してある新聞記事の中から、メモ程度に簡単に綴ります。


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NO25.●2006.3.23
「4世紀後半から須恵器づくり始まる」
(京都市宇治市・宇治市街遺跡)
宇治市街遺跡で古墳時代の溝跡から出土した最古級の須恵器が、
同時に見つかったヒノキの板材を年輪年代法で測定した結果、4世紀後半に作られたことが確定し、22日、市教委が発表した。5世紀前半とされた日本の須恵器生産の開始を20年〜30年早める画期的な発見で、生産を担った朝鮮半島の渡来人の移住も、この頃にさかのぼることを裏付けた。須恵器は古代遺跡の時期決定の基準で、遺跡の年代決定に大きな影響を与えたそうだ。

またほぼ同じ頃、乗馬の風習や鉄器武器の技術や文化も半島から伝わり、日本は「技術革新」の大波を受けた。(読売新聞 2006.3.23朝刊より) 




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NO24.●2006.3.10「観音信仰示す最古の資料、木簡出土」 (明日香村・石神遺跡)

明日香村の石神遺跡で、「観世音経」と記された木簡(
観世音経十巻記白也が出土したと、奈良文化財研究所が9日、発表した。天武8年(679)を示す年号が書かれていて、観音経の存在を示す最古の資料。天武天皇の病気平癒のため同経を読ませたという「日本書紀」の記述からうかがえる当時の観音信仰の流行を裏付けるもので、日本の仏教史上、極めて重要な発見といえる。

観世音経は、法華経の一部が独立した1巻。「日本書記」には、686年8月、天武天皇の回復を願い、「観世音経を200巻読ませた」と記されている。同遺跡には饗宴のための施設があったとされる。今回の発掘では遺跡の北側の遺構から、木簡や銅製の人形(ひとがた)、舟形や鳥形の木製品など大量の遺物が出土した。
(読売新聞 2006.3.10朝刊より)




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NO23.●2006.3.9「石舞台工事のための宿舎・・墓所の廬(いお)出土」・・蘇我一族集結・・ (奈良県明日香村・島庄遺跡)

●「島庄(しまのしょう)遺跡」で、蘇我氏一族が「墓造りシマショウ」と言った。

●「墓造りは大い
ソガシ(蘇我氏)だったよ・・」

明日香村の島庄遺跡(7世紀後半)で、建物跡2棟と巨大な柱穴2基が出土したと、県立橿原考古学研究所が8日、発表した。現場は石舞台古墳のすぐ近くで建物跡は「日本書紀」の記述のある墓の造営のための宿泊所、「墓の廬(いお)」、柱穴は被葬者の魂を呼び寄せるための「大柱」とみられる。

「日本書記」によれば、628年に蘇我氏の一族が集まって、馬子の墓を造ったが、子の蝦夷と、弟の境部摩理勢(さかいべのまりせ)が次期天皇候補をめぐって対立。まりせは「墓所の廬」を壊して退去した、とある。また、620年の欽明天皇陵造成の際、周囲に各豪族が高さを競うように大柱を建てたとの記載があり、馬子の墓でも同様のことが行われた可能性が高いという。(読売新聞 2006.3.9朝刊より)



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NO22.●2006.3.8「天武・持統天皇の居所跡出土」・・内裏中枢の全容判明 
(奈良県明日香村・飛鳥京跡) 


明日香村の飛鳥京跡で、飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや 672〜694)の「内安殿」とみられる大型建物跡が出土したと、県立橿原考古学研究所が7日発表。この発掘により、天武・持統天皇の居所だった内裏の中枢部分の全容が判明した。また下層から舒明天皇の飛鳥岡本宮(630〜636年)の一部とみられる大型建物跡も初めて確認された。
「日本書記」によると、浄御原宮には、天武天皇が親王や諸王を招いた「内安殿」
と、遊戯や饗宴を催した「大安殿」、諸臣が集まった「外安殿」があったと記されている。

飛鳥京跡・・
7世紀の飛鳥時代の宮殿の総称。遺構は3層になっている

@上層・・浄御原宮と後飛鳥岡本宮 
A
2層目・・大化改新の舞台となった飛鳥板葺宮(いたぶきのみや)
B
下層・・飛鳥岡本宮


写真;飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)の内安殿とみられる石敷きの大型建物跡 読売新聞2006.3.8朝刊より






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NO21.●2006.2.23「古代の霊柩船出土」・・大王の遺体を運ぶ? (奈良県広陵町・巣山古墳) 

●「燃えよドラゴン」でなく、ゴンドラ出土

●「ゴンドラは葬送(そうそう)に使われた」と曹操(
三国志のそうそう)も言ってたよ


巣山古墳(4世紀後半)の周濠から、表面に文様が刻まれ、朱が塗られた前例のない形状の大型木製品が出土したと、広陵町教育委員会が22日発表した。木製品は船の形に復元できることから、埋葬前に遺体を仮安置する「殯(もがり)」の場から陸路で古墳まで遺体を運んだ「霊柩船」の一部ではないかとみられている。古代の葬送儀礼を解明するうえで極めて重要な発見とされる。

船の側板の形をした、スギ製の部材は長さ、3.7m、幅45cm、厚さ5cm。復元すると長さは8.2mに達する。魔よけを意味する三重の円と帯状の文様が刻まれていた。棺の蓋(ふた)形をしたクスノキ製の部材は長さ4m。これらを組み合わせると、先端が反りあがったゴンドラ形の船に棺をのせたような形になる。これは中国の史書『随書倭国伝』(7世紀)にある「貴人は、三年外に殯(もがり)し、葬に及べば、屍(しかばね)を船上に置きて、陸地にて之を牽(ひ)く」という記述と合致する。
(読売新聞 2006.2.23朝刊より)











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NO20.●2006.1.25
 
「土師器の皿に井部の文字」
 (奈良県葛城市・竹内遺跡)

●「井」さんって「い」たの?

1989年に出土した土師器(はじき)の皿(8世紀前半9の裏側に「井部」と墨で書かれてのが確認された・・と葛城市歴史博物館が1月23日に発表した。一昨年、中国で墓誌が見つかった遣唐留学生、井真成(せいしんせい、いのなまり)との関連が注目される。

井真成の出自を巡っては、大阪府藤井寺市の外交官を多く輩出している「葛井(ふじい)氏」か「井上氏」とする説が有力だが、今回の墨書は「井」という姓の氏族が存在したこともうかがわせることから、この論争にも一石を投じることになりそうだ。(写真は読売 2006.1.24朝刊)


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NO19.●2006.1.20
 「聖徳太子の弟の墓の大規模外堤」・・塚穴古墳 (大阪府羽曳野市)

●来目(くめ)皇子のひとりごと・・よく兄から、水「くめー」と頼まれたよ。自分もお札になりたかったな・・。スナックでお札を払ったよ・・おさつスナック。


聖徳太子の弟・来目(くめ)皇子(?〜603年)の塚穴古墳の外堤が出土したと市教委が19日発表した。塚穴古墳は7世紀前半の古墳で、方墳。外堤に囲まれた墓域は約100m四方と推定され、規模は当時の実力者蘇我馬子の石舞台古墳と同規模で、トップクラスの人物の墓だったことがわかった。今回の出土で、くめ皇子が大きな権力を持っていたことがわかったそうです。

来目(くめ)皇子・・用明天皇の皇子で、母は穴穂部皇女。兄は聖徳太子。602年、朝鮮半島・新羅討伐の将軍となったが、途中、九州で病没。河内の羽生山に葬られた。山口県防府市には、宮内庁が管理するくめ皇子の「殯れん」の地がある。(殯(ひん)れん・・埋葬するまで棺の安置をすること)
(写真は読売 2006.1.20朝刊)


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