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奈良県・京都の遺跡ニュースの記録・2005年(NO12〜18) 


●元々遺跡が好き・・・遺跡に接してタイムスリップ!

私が考古学に興味を持ったのは、大学1年の時からです。考古学研究会で遺跡の発掘をしたり、学生時代友達と明日香村を訪れて、周辺を散策していました。
保存してある新聞記事の中から、メモ程度に簡単に綴ります。

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NO18.●2005.12.4
 「島庄遺跡・蘇我馬子邸・明日香村」

飛鳥時代の大豪族、馬子(?〜626年)の邸宅跡とされる島庄遺跡で、遺跡の北限と見られる、7世紀半ばの塀の跡が発見されたと4日、明日香村教育委員会が発表した。大化改新(645年)で蘇我氏が滅亡した直後、朝廷が接収した際、築いたものと推測される。東西約250m、6ヘクタール(1ヘクタール=100m×100m)で、
馬子邸の敷地は甲子園の1.5倍の広さであったようです。
(写真は読売 2005.12.5朝刊)















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NO17.●2005.12.1 
「カヅマヤマ古墳・明日香村」

被葬者は、皇族か豪族か、百済王族クラス。出土が相次いでいる明日香村のカヅマヤマ古墳

この古墳は、660〜680年頃の築造とみられている。薄い板状に加工した石を積み重ね、漆喰(しっくい)で塗り固めた「磚(せん)積み石室」。これは百済に多く見られることから、日本に滞在していた百済の王族らが葬られた可能性もあるそうです。 同古墳は一辺24メートルの二段築成の方墳。尾根の南側を東西約100メートルにわたって削るなど、大規模に土地を造成して築造されていた。石室のうち被葬者を納めた玄室(長さ2・6メートル以上、幅1・8メートル)中央には、棺を置く台があった。被葬者は50才ぐらいと見られています。現地見学会は3日午前10時から。近鉄飛鳥駅から徒歩20分
(写真は読売 2005.12.2朝刊)

 


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NO16.●200511.13
「蘇我入鹿邸跡・明日香村 甘樫丘」




★★とうとう遺跡ニュースにもダジャレが侵攻!★★・・・・

●飛鳥川一帯が一望できる、見晴らしのいい新築の邸宅に入鹿親子が住めたのは、わずか半年あまり・・








明日香村川原の甘樫丘東麓(あまかしのおか とうろく)遺跡で、7世紀の掘っ立て柱建物跡5棟が出土した。645年・大化改新で暗殺された蘇我入鹿の邸宅「谷の宮門(はざまのみかど)」の可能性が高いとされている。以前から、この辺りに入鹿の邸宅があったことは、知られていた。甘樫丘は入鹿が暗殺された飛鳥京跡の北西600mの地点にある。丘から飛鳥京跡を見下ろすことができる。

『日本書紀』の記述と一致・・

644年11月に「蘇我大臣蝦夷(おおおみ えみし)と、子の入鹿は家を甘樫丘に並べ建てる。大臣の家は上の宮門、入鹿の家は谷の宮門という」と記述がある。翌645年6月に入鹿が暗殺された翌日、父蝦夷(えみし)は、自邸と入鹿邸に火を放って自害したと書かれている。
(読売新聞・20005.11.14朝刊より)






























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NO15.●20059.17 「平等院鳳凰堂・京都」・・50年ぶりの修理で発見
京都府宇治市の世界遺産・平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像(国宝)の台座から、青や緑色のガラス玉、螺鈿(らでん)、銅の鎖など約630点が見つかった。平等院が17日に発表。坐像の天蓋(てんがい)に飾られていた装飾品の部品と見られ、外れたか外した後に散逸を防ぐため台座に納めたとみられます。平等院は「坐像が制作された平安時代のきらびやかな造りがうかがえる貴重な資料」として、一般公開を同敷地内にある「平等院ミュージアム鳳翔館」で12月11日まで一般公開されるそうです。

写真左は直径3mm〜5mmのガラス玉とガラス玉の飾り)

写真右は50年ぶりの修理が終わった平等院鳳凰堂の本尊・阿弥陀如来坐像・・台座は修理中のため仮の台座・・読売新聞2005.9.17夕刊より))

平等院・・藤原道長の別荘を、子の頼通が1052年に寺院に改めて「平等院」と名付けた。その翌年に鳳凰堂(阿弥陀堂)が完成。当時、貴族や僧侶らに広まった浄土信仰を繁栄し、極楽往生の世界を現実に再現したものとされる。1994年、世界遺産に登録された。



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NO14.●2005.8.26
 「下三橋遺跡・奈良」
奈良時代(8世紀)の都、
平城京の規模が南に400m大きかったことがわかりました。南北に「十条」まで計画されていたようです。京城の南側を区切る外郭「羅城」と見られる遺構も初めて出土しました。

NO13.●2005.8.24 「島庄遺跡・明日香村・奈良」
蘇我馬子(?〜626)の邸宅跡と見られる遺跡から、5棟の建物があることが判明。
規模は天皇宮殿並みであることがわかりました。さらに同遺跡で、蘇我氏滅亡後に建てられた、草壁皇子(662〜689)の離宮「嶋宮(しまのみや)」と見られる建物跡の規模もわかりました。

NO12.●2005.3.9 「島庄遺跡・明日香村・奈良」
蘇我馬子(?〜626)の邸宅跡と、蘇我氏滅亡後に建てられた、草壁皇子(662〜689)の離宮「嶋宮(しまのみや)」と見られる建物を併せて、7棟の建物があることが判明しました。


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