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NO.5 (2005.12.12)

◆1.安倍文殊院・安倍仲麻呂の墓 

奈良県桜井市阿部

◆2.安倍仲麻呂の歌・・エリート官僚の悲哀 
◆3.NHK新シルクロード「西安永遠の都」より




◆1.安倍文殊院・安倍仲麻呂の墓

「大和安倍の文殊さん」として名高い。京都の切戸(きれど)文殊・山形の亀岡文殊とともに日本三大文殊のひとつです。
大化元年(645)、大化改新の時に、左大臣として登用された安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が阿部氏の氏寺として創建したそうです。安倍は阿部とも書かれることがあります。


●本堂

現在の本堂は、寛文5年(1665)の再建。鎌倉時代の快慶が作った木彫極彩色の本尊である文殊菩薩騎獅像(きしぞう)は巨大な獅子に乗った姿で、高さ7m。右手に利剣、左手に蓮華を持つ日本最大の文殊像で重要文化財。智恵にあやかりたい人や、合格祈願に訪れる人が多い。




●文殊池の浮見堂






●史蹟文殊院西古墳・・安倍仲麻呂の墓

本堂横にある、花崗岩石を加工し左右の石数をそろえ、天井はドーム状にふくらませている。飛鳥時代の古墳。
唐に渡った安倍仲麻呂(阿部仲麻呂)の墓とされている。玄室に「願かけ不動尊」が祀られていて、国の特別史跡になっている。




◆2.安倍仲麻呂の歌・・とうとう唐から帰れなかったエリート官僚の悲哀

万葉花G(万葉時代に唐で詠まれた歌)・・◆天の原ふりさけ(振り放け)見れば三笠の山に出でし月かも


安倍仲麻呂(698〜770)は、奈良時代第9次遣唐使として717年(19才のころ)、難波津から船で出発します。小さい4艘の船はそれぞれ木の葉のように揺れたそうです。荒れ狂う海に命がけで出発したそうです。若い遣唐使たちは、
長安目指して「見たい、行きたい、学びたい!」という希望を持って・・・。吉備真備らとともに唐に渡りました。この時のメンバーに2004年秋に遣唐使の墓誌が見つかった井真成(せいしんせい)の姿もありました。仲麻呂は唐の国で、司書からスタートしましたが、日本人でありながら、最難関と言われた中国の官吏登用試験である科挙の試験に見事合格し、唐朝廷の官吏となりました。そして中国名で「朝衛」と名乗ったそうです。そしてベトナム地方の将軍に昇格するほどエリート官僚としての道を極めたそうです。

仲麻呂らは唐の国で玄宗皇帝に仕えます。大勢の人が皇帝に仕えていて皇帝の周辺は華やかだったそうです。李白や王維とも交際があったそうです。仲麻呂は何度も玄宗皇帝に帰国を願いでましたが断られ続けていました。仲麻呂が55才ころの753年、やっと帰国が許され、明州(ニンパオ・寧波・・揚州説もあります)の辺りで日本に向けて船が出発する時、11月16日の初冬の満月を
古郷に思いを馳せて詠んだ歌とされています。日本に帰れるので仲麻呂はどんなに嬉しかったでしょう。

しかし鑑真和尚も乗っていたというこの船は不幸にも遭難しベトナムのハノイのあたりに漂着します。船団の多くの人は殺されますが仲麻呂は逃げ延びて何とか長安にたどりつきます。そして仲麻呂は一生日本に帰ることはなかったそうです。こうした背景を考えると「天の原ふりさけ見れば・・」の歌は悲しい響きに聞こえます。『安倍文殊院の墓と西安の記念碑』がせめてもの慰めです。
(写真;西安の「阿部(安倍)仲麻呂記念碑」・・碑の向かって左側に「天原・・」の歌が漢字で刻まれています)




◆3.NHKスペシャル新シルクロードI「西安永遠の都」より

2005.12.11放送内容より

●長安の最大の魅力・・海外からの大勢の人々や留学生を受け入れるふところの深さ


★当時の長安の様子・・
シルクロードは長安に始まり長安に終わる

巨大な100万人都市の長安は城壁に囲まれていたそうです。世界中の人が長安をめざしてやってきたそうです。その経済の中心になったのが「西市」と呼ばれる巨大なマーケットです。このマーケットは、シルクロードを含めた50ヵ国の物産と無数の商店でにぎわったそうです。そしてシルクロードからきた胡姫のエキゾチックな踊りも魅惑的だったそうです。李白もこの市が気に入っていて遣唐使をともなってよく訪れていたそうです。「西市」は長安のシンボル的存在だったそうです。



●井真成(せいしんせい)・・藤井寺の豪族出身で、藤井か井上氏の出。19才で仲麻呂と同年齢で唐に渡り、734年、36才で唐の国で亡くなりました。亡くなったときは玄宗皇帝も大変悲しみ慣例にならい官位を授けたそうです。

墓誌・・
死者の経歴や仕事ぶり、唐の国が哀悼の意を述べたものなどが石に刻まれています。この井真成の墓誌には、はっきり「日本」から来たと記されてるそうです。「日本」という文字が初めて出てきた碑文としても注目の値があります。


●吉備真備・・岡山の豪族の出身。井真成が亡くなった年の734年、日本に帰国し、聖徳太子に仕えて右大臣となった。(写真;陜西省西安博物館前・西安の建物)




◆遣唐使船で唐に渡った空海

空海(774〜835)は安倍仲麻呂より後の人ですが、遣唐使船で唐に渡っています。仲麻呂の時代の遣唐使船はこれよりももっと粗末なものだったのでしょうね。因みに空海は延暦23年(804)、31才で唐に渡り、2年後の806年に日本に帰って来ました。

写真;●西安の「空海記念碑」 ●西安にあった「空海入唐図」






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