◆◆平安ゾーンU ◆平安時代の史跡・人々(藤原道長、源義経、後白河法皇etc)
白河北殿跡・・保元の乱・崇徳上皇本拠地
京都市左京区東竹屋町
京大熊野寮、寮前の丸太町通りを含む一帯 2012.5
【保元の乱】
★天皇家・摂関家・武家の骨肉の争い・・悲劇的な結末
1156年、鳥羽法皇の死後9日後に勃発。原因は後白河天皇と崇徳上皇による天皇家の対立と、摂関家、兄藤原忠通と弟の頼長の対立による。
崇徳上皇は7月9日の夜、鳥羽殿(現在の伏見区竹田田中殿町)から白河北殿(現在の左京区京大熊野寮一帯)に移り、藤原頼長、平忠正(清盛の叔父)、源為義・為朝親子が合流。作戦会議で戦に長けた源為義・為朝(8男)親子は夜襲を勧めるが、戦いに不慣れで、貴族体質の藤原頼長は夜襲に反対する。
7月11日の明け方、源義朝軍200騎、清盛軍300騎がそれぞれ進軍、激闘となる。4時間後、白河北殿に火がかけられ、崇徳上皇と藤原頼長は脱出する。崇徳上皇は逃亡の途中出家し、仁和寺に保護を求めるが内裏に知らされ、すぐ讃岐(香川)に配流となり、8年後の1164年に非業の死を遂げる。。藤原頼長は奈良にいる父・藤原忠実を頼って木津まで逃げるが、中立を保つ父に拒絶され絶望の中、自害する。源為義は敵方・後白河方についた長男・源義朝により斬首される。平忠正(清盛の叔父)など捕らえられた崇徳方の兵士も斬首される。8男・源為朝は伊豆に配流される。
■白河北殿跡の近くにある、熊野神社