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★宇治川の戦い・先陣の碑・・義経ゆかり 

京都府宇治市蓮華・橘島  2011.6

■悠久の宇治川と朝霧橋























宇治川・先陣の碑

朝霧橋を渡り、中州にある橘島に着くと、「宇治川・先陣の碑」があります。

【宇治川の戦いの経過】
寿永2年(1183)、木曽義仲は、信濃の国で平家打倒の挙兵を行う。数万騎の兵を引き連れ、上洛し暴れ回った。皇位をめぐり後白河法皇とも争う。同年10月、東山七条の法皇の院御所「法住寺」も攻撃した。
ついに翌年の寿永3年(1184)1月20日、木曽義仲軍と、源頼朝から義仲追討の任を受けた源義経軍が宇治川で激突。













【先陣争い】
天下の激流を挟んだ両軍の決戦は、義経軍の名馬「するすみ」に乗った梶原景季(かじわらかげすえ)と、名馬「いけづき」に乗った佐々木高綱(ささきたかつな)の「先陣争い」で幕を切って落としました。
先陣争いとは味方同士の争いです。いち早く敵陣に乗りこみ、勝利に導いた武将が勝ちです。先陣は、策にたけた高綱がとり、義経軍が一斉に渡河して義仲軍を打ち破りました。この碑は、その故事に因んで、昭和6年(1931)に建立されたものです。


【梶原父子】
先陣争いで一歩遅れをとった梶原景季(かじわらかげすえ)は、父・梶原景時の代から源頼朝に絶大なる信頼を得て、鎌倉幕府の有力な御家人となっている。梶原景時と源義経は、壇ノ浦の合戦から戦功をめぐり、仲が悪く、梶原景時は義経を貶(おとし)めた人物とされている。息子の梶原景季は義経の奥州討伐にも出陣する。梶原家は、頼朝の死後、没落する。(碑から朝霧橋が望める)

















●静けさの漂う橘島













●橘島にある、白っぽい橘橋。
修学旅行生を乗せた、三連の舟が行き交います。



















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