◆◆江戸時代 ゆかりの地

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★今宮神社・・家光側室・桂昌院ゆかり 

京都市北区紫野今宮町21 
 
2011.9

この神社は大徳寺の北に位置する。正暦5年(994))船岡山に創建された疫病鎮護の神社が起こりと伝えられ、その後、今の地に移り今宮神社となる。祭神は、大国主命・事代主命・稲田姫命。

●鳥居  ●楼門












●本殿       ●疫社      ●拝殿












●拝殿の三十六歌仙 












●紫野斉院ゆかりの若宮社  ●西陣織ゆかりの織姫神社












●紫野稲荷社













●朱色の橋     ●東門












●桂昌院の碑・・今宮社中興の祖・・故郷、京都・西陣への篤い思いと感謝の念・・

桂昌院(寛永4年・1627〜宝永2年・1705)は、3代将軍家光の側室。八百屋仁左衛門の娘で名は「お玉」。父の没後、母・鍋田氏は二条家家司北大路太郎兵衛宗正と再婚。その縁で、お玉は大奥の家光の側室・お万の方に仕え、やがて春日局に仕えるようになってから家光の目にとまり側室となる。そして1646年、5代将軍綱吉の生母となる。「玉の輿」の由来はこのお玉からくるとされている。再婚した母が公家に嫁いだのがそもそも玉の輿のきっかけである。

〈今宮社の復興に尽力された桂昌院〉

桂昌院は終生、神仏を敬うこと深く、報恩感謝の心が厚かった。産土(うぶすな)の神の坐ます今宮社が当時荒れているのを嘆き、元禄7年(1694)、時の奉行に命じて社殿を造営、神領を寄進。そのため神域は面目を一新した。















桂昌院は、さらに途絶えていた「やすらい祭り」を復活させる。御幸道を改修し、氏子地域は往時を凌ぐほど、盛況を取り戻したと伝えられる。「今宮祭」には御牛車・鉾を寄進し祭を盛り上げた。

さらに元禄12年(1699)、江戸(東京都文京区音羽)の護国寺に今宮社を分祀し建て、毎年江戸で、今宮祭の祭礼を行った。護国寺の近くには今でも今宮社が現存する。桂昌院は京都・西陣の出自で、故郷を愛する思いが人一倍篤かったと思う。
桂昌院は79才でこの世を去り、300余年経た今でも、今宮社・中興の祖として地域の人々に崇敬されている。



●「夜須礼祭(やすらいまつり)」、「安良居祭(やすらいまつり)」ともいって、民俗芸能上も重要な祭りで、民俗無形文化財指定になっている。

笛や鉦(かね)・太鼓の囃子(はやし)に合わせて「やすらい花や」と唱えながら街中を踊り回る。赤鬼・黒鬼は音頭取りの詞(ことば)に合わせて輪になって、太鼓・鉦を打ちながら跳躍する。鬼は街中を練り歩き神社に戻る。この花傘をくぐると厄除けになるという。














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