◆◆江戸時代 ゆかりの地

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★本法寺 京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町 

2011.6

●本阿弥光悦菩提寺

●国交を回復した家康・・朝鮮通信使ゆかりの寺

京都日蓮宗十六本山に属する。堀川通、茶道資料館の隣に位置する。永享8年(1436)、本阿弥清信が日親上人を開基として創建。はじめ四条高倉にあったが、天文5年(1536)の法華の乱によって山徒に焼かれ、後に現在地に移る。江戸時代には、後水尾天皇・紀州徳川家の保護を受けて繁栄した。現在の堂宇は江戸後期に再建されたもので、京都府指定有形文化財になっている。

当寺は本阿弥家の菩提寺としても名高く、一門の墓もある。本阿弥家は日蓮宗の信仰が厚かった。光悦は多くの書画・什器を寄せている。重要文化財には長谷川等伯の絵画「仏大涅槃図」や光悦の書がある。















方丈庭は光悦作の「巴(ともえ)の庭」がある。















●唐門と涅槃会館 ●本堂側面 ●本堂正面












●本堂前の光悦御手植えの松















●多宝塔 ●開山堂 

●仁王門・・寺の東門は上品な朱門で趣があり美しい。近くには茶道家の屋敷があり、辺りは落ち着い詫び・さびの風情がある。
















●鐘楼 ●経蔵・・宝蔵と共に天明の災禍を免れ、当山最古の堂宇となっている。















●大摩利支天尊を祀る堂















■国交を回復した家康・・朝鮮通信使ゆかりの寺

文禄元年〜慶長3年(1592〜1598)の7年にわたる、文禄・慶長の役は、朝鮮半島の人々に甚大な犠牲を与え、国内でも賛同する者はいなかったと伝えられている。秀吉の弟・秀長も出兵に反対したといわれている。

秀吉の死によって戦闘は終息したが、その戦後処理は難航した。朝鮮側は新しく日本の政権を握った徳川家康の真意を確かめるために、慶長9年(1604)に松雲惟政という高僧を日本に派遣することにした。松雲大師は、戦中僧兵を率いて日本軍と戦った人物である。同年(1604)、12月末に対馬島主などと共に入洛した松雲大師は本法寺に滞在し、家康との会見を待った。
その間、京都五山の著名な僧侶たちが本法寺に大師を訪れて詩文の交流をしたり、仏教や儒教の知識について筆談問答を重ねた。ある日本の僧侶は大師を「博覧強記・筆跡もまた麗し」と評している。

翌年の慶長10年(1605)3月の初め、伏見城で家康との会見が行われた。この時家康は「我は朝鮮に讐怨(しゅうおん)無し。和を請う」と述べた。この報告を受けた朝鮮朝廷は、「家康からの謝罪の意思を表した国書の到来」などが国交回復の条件とした。慶長12年(1607)には、朝鮮から戦後初めての使節団「回答兼刷還使(かいとうけんさつかえし)」が来日することにつながった。


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