◆◆江戸時代 ゆかりの地

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★養源院・・お江供養塔・・徳川菩提寺

淀君からお江、お江から東福門院へと受け継がれる
 
 

東山区三十三間堂


2011.1


後白河法皇ゆかりの法住寺に隣接しています。向かいは三十三間堂です。

秀吉の側室、淀君が父、浅井長政の追善のため文禄3年(1594)に建立。寺号は浅井長政の法号・養源院をとったものです。1616年、前年の大坂夏の陣で散った姉淀君・茶々を弔う供養が妹お江によって行われた。

1619年に火災で焼失しましたが元和7年(1621)徳川秀忠正室、崇源院(お江・・淀君の妹)が伏見城の遺構を移して、本堂を再建した。以来徳川の菩提寺となっている。参道が長いのが印象的です。













●血天井・・徳川ゆかりの寺という大義名分が必要

本堂の正面と左右廊下の天井は、慶長5年(1600)関ヶ原の前哨戦で伏見城が落城した際、家康から同城の守備を命じられた、鳥居元忠らが自刃した時の血に染まった板の間を移築したもので、「血天井」と呼ばれています。なぜ、この血天井が用いられたかというと、この寺は父・浅井長政の菩提を弔うため、豊臣家の淀君が建てた寺なので、再建にあたり、徳川方の侍を弔うという大儀名文が必要でした。

●本堂・松の間・・襖絵「松図」や杉戸絵は俵屋宗達の筆とされ、重要文化財になっています。


●3つの家紋(五七桐・三つ葉葵・八葉菊)

本堂には、徳川秀忠と崇源院(お江)の位牌があります。
崇源院の位牌には3紋が施されています。五七桐は豊臣(養女時代)、三つ葉葵は徳川、八葉菊紋は天皇家。崇源院が亡くなってから2ヶ月ほど経過した寛永3年11月28日、朝廷より従一位が贈られている。


●毘沙門堂・・毘沙門天(戦勝の神)を祀る    ●弁天社















●市指定の樹・ヤマモモ・・秀吉公お手植えの木を伏見城より移設  ●勅使門












●境内奥にある崇源院(すうげんいん・お江1573〜1626)供養塔

・・五女の東福門院が建立

寛永3年(1626)9月15日、54才で江戸城西丸御殿で亡くなる。夫の徳川秀忠と息子の家光・忠長は五女・東福門院の夫である後水尾天皇の二条城行幸(9月6日〜10日)にあたり、危篤の報が届いた9月11日も二条城に滞在中でお江の死に目に会えなかった。お江の死については、急であったこと、夫や息子や幕府の重鎮が江戸城不在の時だったため、死因については諸説がある。

10月18日、お江の葬儀は壮大に行われた。麻布の荼毘所(徳川家で唯一の火葬)から芝・増上寺まで1.8kmの長い葬列が続いた。増上寺霊廟で安らかに眠る。

徳川のトップレディとなったが、豊臣の滅亡で姉・淀君を亡くす・幼い娘たちの政略結婚に心を痛める・最愛の次男・忠長を押さえ、長男・家光をバックアップする春日局との確執など、気苦労の多い波瀾万丈の人生であったと思う。

五女の東福門院は、お江の死後から6年経った寛永9年(1632)にこの供養塔を建てた。父秀忠はこの年に亡くなっている。















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