◆◆江戸時代 ゆかりの地

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★読書の記録 『東福門院和子の涙』 講談社 2011.1


【著者・宮尾登美子】

1926年、高知県に生まれる。1962年『連』で婦人公論女流新人賞、1973年『櫂』で太宰治賞、1979年『一絃の琴』で直木賞、1982年『序の舞』で吉川英治賞を受賞、数々の受賞に輝く。1989年紫綬褒章、2009年文化功労賞を受賞。2005年『義経』・2008年『天璋院篤姫』が大河ドラマとなる。女流文学の神髄を究める。



東福門院和子(まさこ)は、慶長12年(1607)に父・徳川秀忠、母・浅井三姉妹のお江与の方の五女として生まれる。姉は豊臣秀頼正室の千姫、その下の姉は前田利常に嫁いだ珠姫、兄は徳川三代将軍家光・・。和子は元和20年(1620)、14才で後水尾天皇のの妃として嫁ぐ。慣れ親しんだ親や兄弟と離れ、江戸を出立し京都御所に入内する。朝廷と幕府の公武合体の証として、和子が京に送られた。

『人のなさけ冷たきこの京にて、あてなき日々を送ることを考えますれば衿もとより冷たさ吹き込んでくる如き思いいたします』(和子の侍女の思い・・本文引用)。

寛永4年(1627)、紫衣事件勃発。朝廷と幕府というふたつの大きな権威のもとで、その板挟みとなり苦しむ。5人の皇女と2人の皇子をもうけるが、2人の皇子と1人の皇女は早世。夫の中継ぎとして、娘の興子内親王がわずか8才でにわかに明正天皇という女帝となる。女帝の誕生は皇統史において859年ぶりで、自分の手許から離れ行く、幼子の行く末を思い和子は母としていたたまれない思いにかられる。

夫の後水尾天皇は東福門院(和子)以外の女人との間に26人の子を成しており、この数字からも東福門院の苦労と悲しみが偲ばれる。東福門院は波瀾万丈の人生を72才で閉じた。亡骸は東山区泉涌寺月輪陵に葬られる。

写真は京都市左京区南禅寺塔頭「光雲寺」・・東福門院の木像を安置する。後水尾天皇・東福門院勅願所の寺















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