◆◆江戸時代 ゆかりの地

江戸時代・目次に戻る

トップページに戻る

★淀城・・・春日局の子孫(稲葉氏)ゆかり

京都市伏見区淀本町
 
2010.8

徳川2代将軍秀忠は、元和5年(1619)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川が合流する水陸の要所である淀の地に、松平越中守定綱に築城を命じ、元和9年(1623)に着工、2年後の寛永2年(1625)に竣工した。

この城は秀忠・家光父子上洛の際の宿所となった。寛永10年(1633)、国替えにより永井尚政が城主となっている。その後、松平氏・戸田氏・稲葉氏などの諸大名に入れ替わっている。享保8年(1723)5月、春日局の子孫である稲葉丹後守正和が、下総佐倉(千葉)から淀へ移り、明治維新までの150年近く、この淀城は稲葉氏、十万二千石の居城であった。


●天守台とその周辺

昭和62年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ、大小の礎石を含む石蔵が発見された。それは、白亜五層の天守閣の地下室と基礎に相当する。宝暦6年(1756)の雷災で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものである。
























●城の一部は公園として整備されている

●本丸石垣と堀・・当時は二重三重の堀がめぐらされていた。













●美しい花が咲く堀・・京阪電車のホームから、堀やミニチュアが見えます

●ミニチュア・・水車

「淀の川瀬の水車、誰を待つやら くるくると」の歌で有名な水車は、直系8mで城の西南と北の2ヶ所に取り付けられていた。














●ミニチュア・・五層の天守閣

秀吉時代の淀君ゆかりの淀城は、現在地より北方約500mの位置にあったとされている。










●ミニチュァの船・・「朝鮮通信使」の旗を掲げた「西国丸」

城下町の盛観は、延喜5年(1748)5月2日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を写した「朝鮮聘(そう)礼使淀城着系図」に詳しく書かれている。










江戸時代・目次に戻る

トップページに戻る


FC2 キャッシング 無料ホームページ ブログ blog
SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO