◆◆江戸時代 ゆかりの地

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戦国武将の人間学」
・・人材の生かし方について書いた本
 
童門冬二 小学館文庫
 2005.11

童門冬二(どうもんふゆじ)・・・1927年、東京生まれ。東京都庁で政策室長などを歴任。1979年、美濃部都知事退陣と共に退職(52才)、執筆・講演活動に入る。
組織と人間をテーマに『小説上杉鷹山』『北の王国』など著作多数。


●立て札の漢字を、「かな」に直してもいい「かな」?

●日本一短い手紙を書いた人は、家康の部下だった!

本多作左衛門重次の有名な短い手紙。本人の名前より手紙の方が広く知れ渡っているような気がします。

「一筆啓上 火の用心 お仙痩せさすな 馬肥やせ」・・合戦のため家を空けることが多かった作左衛門は、家族に手紙を送っています。
自分の跡取りの仙千代をよく育てろ、火事を出すな、馬も十分肥やしておけ・・といった内容です。

☆日本一の短気男・・気の短い作左衛門の短所うまく生かして使ったのが主人の家康だそうです。

◆本多作左衛門の主な業績・・・・熱血系の仕事ぶりに家康はいつも感動していたそうです

@法律の削減・立て札のかな書き

長年、駿河の今川義元のところで人質になっていた、家康がやっとの思いで、岡崎に戻ったとき、岡崎のまち奉行に、この作左衛門を抜擢したそうです。奉行所の役人が次々に法律を作っては、守らない住民がたくさんいたそうです。作左衛門はつぎつぎ住民を牢屋に入れ、鬼作佐と呼ばれるようになりました。ある日、作左衛門は法律が多すぎることに気づき、5分の1に法律を削減させたそうです。そして、法律を書いた立て札がほとんど難しい漢字だったため、思い切って全部かなにしたそうです。そして作佐は立て札の最後に、「これを守らぬと、作佐が怒るぞ」と書き加えたそうです。

立て札はわかりやすくなって、住民は法律もよく守るようになったそうです。岡崎の城下町がそれ以来、ダラダラしていた雰囲気がピタリと止んだそうです。そして、まちのおかみさん連中は、台所仕事の時
「かまどよかまど、早く炊かぬと、作佐様が怒るぞ」と口々に言ったそうです。

A秀吉の生母(大政所・おおまんどころ)を人質扱いに・・

信長亡き後、天下をとった秀吉は全国の大名を部下にしようとして、関白になりました。その祝賀パーティに全大名を招きましたが、家康が参加をしぶっていたので、秀吉は母親を岡崎に送ってきて、自分の心の証にしたそうです。その大政所を家康は部下の作左衛門に預けたそうです。作佐は、大政所を一軒の家に閉じこめ、まわりに薪を山のように積み、自分は武装して、槍を持って警戒したそうです。秀吉のパーティーに出席した「家康様の身が万が一のときは、すぐにこの女人を焼き殺す・・」と作佐はおそろしい形相で言ってまわりのものを震えあがらせたそうです。家康は「さすが作佐だ」といってその忠誠心に感動したそうです。

こうして家康は秀吉の部下になり、大戦争を避ける結果となったそうです。そのかげに作佐衛門の捨て身の功労があったからだそうです。むろん、この人質の話を聞いた秀吉は、作佐に腹を立てたそうです。

☆☆本書は、この他に、信長・秀吉・信玄・利家・政宗etc・・の人材活用についても言及しています


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