◆◆江戸時代 ゆかりの地

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千姫春秋記 円地文子 角川文庫 2006.5

円地文子(えんちふみこ 1905〜1986)
日本女子大学付属高等女学校中退。戯曲・劇作家として21才でデビューする。『ひもじい月日』で日本女流文学者会賞、『女坂』で野間文芸賞、一連の活動で谷崎潤一郎賞、文化勲章を受章する。

★物語は大坂城落城から4年後、生き別れになった乳母が、姫路城の千姫を訪ねて来る場面から始まります

★節々に大坂城時代の回想も織り込まれています

千姫(1597〜1666)は安土桃山時代から江戸時代にかけて生き抜いた女性です。千姫の祖父は徳川家康、父は徳川秀忠、母は於江与(崇源院・・・浅井長政・お市の次女、姉は淀殿にあたる)、弟は後の3代家光と・・これだけでもわかるようにすごい血統です。千姫は2才の時、すでに豊臣秀頼と婚約が成立していて、7才で江戸を離れ大坂城の豊臣秀頼(11才)に嫁いできます。徳川の人質として一歩まちがえると過酷な運命が待ち受ける危険な任務でした。秀頼の母は淀殿で千姫の叔母にあたります。千姫は徳川の娘であったため、秀頼と仲むつまじくすることは良しとされず、監視下におかれていたようです。

1615年大坂夏の陣で落城しそうな時、千姫は徳川方の使者より救出されます。救出されたことによって、また新たな人生を切り開くことになります。翌年、桑名城主の本多忠政の息子、本多忠刻(ただとき)と結婚するに至ります。この時千姫と結婚したがっていた津和野藩主・坂崎直盛が千姫の輿入れを襲撃しようとして殺害されます。直盛は落城の際、堀内氏久とともに千姫を助けた人でした。家康は、姫を助け出した人と結婚させるという約束をしていたという一説があります。この事件は「千姫事件」といわれています。

千姫は大坂城落城から1年も経たないうちに、忠刻に嫁いだので世間から非難されたようです。千姫が忠刻を気に入ったとされていますが、忠刻の母熊姫が家康に頼んだという説もあるようです。幼くして人質同然の状態で遠い大坂に嫁いできて、豊臣の監視下に置かれて、秀頼の側室に子どもがふたりもいた状況を考えると、大坂城時代の千姫は複雑な立場にあったと思います。

本多との間に、一男一女をもうけますが長男の幸千代は1621年に4才で夭折(ようせつ)します。その後、流産を繰り返す千姫には「秀頼の祟り」とまた、ひどい噂がたちます。千姫は有名であるが故に、冷たい世評とたたかっていたと思います。1626年に忠刻が病死し、その後姑の熊姫、実母の崇源院と次々に失い、30才で出家して天樹院となります。そして長女の勝姫と共に江戸城竹橋に戻ります。千姫は後半の人生を40年間江戸で過ごします。波乱に富んだ人生は70才で終焉を迎えます。

【大坂城が落城するとき、助けられた千姫は、淀君や秀頼の子で側室との間に生まれた国松・千代姫の助命嘆願をしました。願いむなしく千代姫だけは養女として迎えることができました。千代姫は、秀頼の形見として千姫に大切に育てられます。千代姫は後に鎌倉の東慶寺(縁切り寺)の尼となり、門跡としてその職務を遂行し一生をここで終えます。尼にすることが命をねらわれない最良の方法でした。千姫は、豊臣の血が絶えないように配慮していて、豊臣のことはいつも心にかけていたと思います。

後世の浪曲や講談で千姫の色恋沙汰をおもしろおかしくとりあげたようですが、それは作り話であることはいうまでもありません。それは淀殿が後々非難されたのと同じで「勝てば官軍、負ければ賊軍」の図式なのでしょうか。時代に翻弄され、世間から冷たい視線を浴びながらも果敢な一生を送った千姫は、円地さんの作品の中で
聡明で妖艶な女として生き生きと描かれています。まさに千姫に命を吹き込んだ作品といえます。】

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