◆◆新撰組の部屋 史跡をたどる

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★新撰組発生から滅亡まで★

写真;京都市・壬生屯所・旧前川邸

安政5年(1858)9.7〜・・「安政の大獄」・・大老、井伊直弼(家茂派)が、「尊王攘夷派・開国反対派・慶喜派」を弾圧。100人が処刑される。

1859.3.3・・「桜田門外の変」・・大老、井伊直弼(家茂派)が、暗殺される。

文久2年(1862)・1.15・・「坂下門外の変」・・老中、安藤信正が浪士に襲われる。

文久2年(1862)・4.23・・薩摩藩の尊皇攘夷派と島津久光の争い(寺田屋事件)


文久2年(1862)・7.27・・京都守護職を設置


文久3年(1863)2月、14代将軍・徳川家茂上洛の特別警備隊として、浪士隊234人が小石川・伝通院にに参集する

同年2月23日・・浪士隊中山道を通って京都入り。壬生村の宿所に入る。壬生には新撰組屯所跡が遺っている。3月に入り、221人の浪士隊は江戸に帰還。

同年3月13日・・京都に残ることを決めた近藤勇・土方歳三ら13人の浪士隊は、東山・金戒光明寺で陣を張る、京都守護職の松平容保(かたもり)に挨拶して、新撰組となった。新撰組の誕生である。京都の治安部隊となる。


同年9月18日・・近藤勇ら、素行不良の芹沢鴨暗殺

同年8月18日・・長州藩、勅命で京都から追い出される


元治元年(1864)6月5日・・「池田屋騒動」・新撰組、長州藩出入りの三条・池田屋を襲う

同年7月19日・・「蛤御門の変」勃発。この時新撰組は100人にふくらんでいた。新撰組は追撃して、逃げ落ちる真木和泉ら17人を天王山で自刃させる。


元治2年(1865)2月・・22日、副長の山南敬助脱走、23日、新撰組脱走の罪で切腹。享年33才。

慶応元年(1865)5月12日・・幕府、長州藩に宣戦布告

慶応元年(1865)9月21日・・朝廷、長州征伐の勅許を出す。



慶応2年(1866)1月22日・・長州・薩摩軍事同盟を結ぶ。

同年1月24日・・新撰組、坂本龍馬が潜伏する伏見・寺田屋を襲うが逃げられる。


慶応2年(1866)7月22日・・大坂城の14代将軍家茂亡くなる

同年12月5日・・一橋慶喜、15代将軍となる。


同年12月25日・・孝明天皇亡くなる。岩倉具視による毒殺説あり。


慶応3年(1867)7月13日・・岩倉具視・大久保利通は長州藩の罪を許し、長州・薩摩藩に、逆賊・慶喜に対する倒幕の密勅を出す

同年10月14日・・「大政奉還」・・慶喜、大政を朝廷に還す。朝廷は大混乱する。

同年11月15日・・坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺される


同年12月9日・・「王政復古」・・岩倉具視らの画策で、朝廷は慶喜の位や領地没収して王政復古をすると宣言。長州藩の罪を許し入京を認める。幕府は亡くなり、守護職・所司代も廃止され、新撰組の隊名も亡くなる。


同年12月11日・・二条城には、旧水戸藩の幕人、大坂城には慶喜が待機。幕府は佐幕路線の新撰組(このころ既に66人)に、伏見奉行所の警護を命令。

同年12月18日・・伏見・藤ノ森で近藤勇、襲撃される


慶応4年(1868)1月3日・・「伏見・鳥羽の戦い」、幕府15000人に対し、薩長土佐藩は5000人だが、鉄砲の前に幕府軍は敗退。

同年1月・・慶喜江戸に向かう。新撰組も船で江戸に向かい1月15日に江戸に着く


同年2月11日・・・慶喜(朝廷の恭順派)は、江戸城を出て山内・大慈院で謹慎する

同年4月11日・・・慶喜、水戸に移る

同年4月25日・・・近藤勇、薩摩藩に捕まり斬首、享年35才

同年5月18日・・・土方歳三、函館五稜郭で戦死、享年35才

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