◆◆平安ゾーンU ◆平安時代の史跡・人々(藤原道長、源義経、後白河法皇etc)

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★牛若丸誕生井 
京都市北区紫竹牛若町 2006.10

牛若丸の母・常盤御前はこの辺りに住んでいて牛若丸はこの地で1159年、源義朝の9男として生まれ産湯につかったとされています。誕生井の碑は畑の中にひっそり立っています。義経の父・義朝の家臣である第30代上野新兵衛氏が大正7年に建立しました。牛若町の地名は今でも残っています。



















義経の生涯

★1159年・・
源義朝(清和天皇から数えて10代目)の9男として生まれる。母は常磐御前、義朝の間に今若・乙若・牛若の3人の子を、後に平清盛の間に1女をもうける。頼朝とは異母兄弟。平治の乱が起きる。

★1160年・・
平治の乱で父義朝没す。頼朝は伊豆に流刑(13歳から33歳の20年間)となる。頼朝は池禅尼(いけのぜんに)のとりなしで命を助けられる。

★1166年・・
牛若7歳で、父とゆかりのあった鞍馬寺にあずけられる。京都の街中では源氏の子は命をねらわれる危険があった。名を遮那王(しゃなおう)と言った。終日、お経を唱え、書を習い、読書に励んだ。

★1174年・・15歳のころ、父の非業の死を知り、学問よりも武術に励む。夜な夜な寺を抜け出し、鞍馬山の西の麓の僧正ヶ谷で剣の修行をする。大木を清盛、重盛(清盛の長男)に見立て太刀を振り回したといわれている。鞍馬寺を出て、奥州平泉(岩手県)に下り、勢力のあった藤原秀衡(ひでひら)に頼る。ここで義経は馬術を学んだとされている。

★1180年・・頼朝(33歳)挙兵。義経(21歳)はこの年の10月、駿河の黄瀬川(静岡)で陣をとる頼朝を訪ねて初めて、兄と対面する。感激の対面となる。この前日は富士川の戦いの話(平家の軍勢が、富士沼に集まった水鳥の大群の羽音に驚いて、あわてて退散した)で有名。

1181年・・清盛が亡くなり、平家の頭領が宗盛(むなもり)になる。舟盛りではない。酒盛りでもない。この頃、延暦寺・興福寺の僧兵も反平家に乗り出す。

★1184年・・1月、義経、京都・宇治川の合戦で木曽義仲を破り、初陣、初勝利となる。
2月、一ノ谷で合戦をした。平家に和平交渉を呼びかけたあと、奇襲した。一ノ谷の後方で展開された
『鵯越(ひよどりごえ・・神戸の山)の逆落とし』の話は有名である。義経は急斜面の山道を騎馬で一気に駆け下りて相手の軍勢を海に敗走させたという。義経が騎馬をたくみに操ることができたのは、奥州(岩手県)時代の成果と言われている。

8月、義経、
検非違使(けびいし)に任用される。これは後白河法皇の策謀ともされている。法皇は武士同志を仲違いさせて自分の地位を確固たるものにしようとした。義経を自分の近臣にさせ、頼朝と対立するようにし向けた。頼朝は自分の推挙なしに、任官した事件に立腹したという。この他に、義経は頼朝に報告することなく、自分の采配で畿内の御家人に自由に賞罰を与えていたので、頼朝は自分の権威が揺らぐのをおそれた。頼朝は平氏追討の頭領は義経でなく、頼朝の弟の範頼を指名したので、義経は「ここにおいて存念あり、一陣において命を棄てんとす」と言って、翌年の2月、暴風雨のなか、周囲の反対を押し切って、やぶれかぶれで船で四国に向かうのである。

1185年・・2月

義経、四国の屋島でまたまた奇襲攻撃して平氏を破る。屋島の合戦の途中の
『那須与一(源氏)の扇の的落とし』の話は有名である。
3月、
壇ノ浦(山口県下関)の合戦で平家を滅ぼす。

義経は戦場の天才・スーパースターとしてますます人気が高まる。後白河法皇の命令どおり、三種の神器を取り戻す(ただし宝剣は海底に失った)。この頃、梶原景時(かじわらかげとき)からしばしば讒言(ざんげん)された。この時のざん言とは、「義経が鎌倉に謀反をおこし世を乱して、頼朝を倒そうとしている」といった内容がしばしば頼朝に伝えられたのである。義経と景時は屋島の合戦の前からしばしば、戦略方法をめぐって衝突したと伝えられている。この不仲が思いもかけず、義経の寿命を縮める要因になるとは鳴門(なると)のうず潮も気がつかなかった。次々に起こす戦勝の功績も身の仇になるとは誰が考えようか。義経が持っていた京都の平家没官領二十四ヶ所はすべて没収された。その後、頼朝は11月に守護・地頭を設置した。

5月

平氏の頭領・平宗盛を捕虜にして、義経は鎌倉の頼朝のもとへ向かうが、鎌倉の手前の腰越で京に返されてしまう。この時の『腰越状(こしごえじょう)』の話は有名です。義経は頼朝に、「謀反の意志が無いことや、源氏のために平氏を倒した想い」を書状でせつせつと訴えますが、聞き入れてもらえず、鎌倉入りは断念せざるをえなかった。

10月

頼朝の兵に襲撃されたあと、11月、吉野山中に隠れる。静御前が捕まる。義経は山伏の姿で逃走する。

1186年・・4月

静御前、鶴ヶ岡八幡宮で舞を奉納する。この時、静御前は『よし野山 峰のしら雪 ふみわけて いりにし人の あとぞ恋しき』『しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔の今に なすよしもがな』・・と義経を慕いながら舞ったとされる。義経を想う大胆な歌で頼朝は激怒したが政子がとりなした。7月静御前は男児を出産するが、男児は同月、亡きものにされる。義経は比叡山に隠れ住む。

★1187年

山伏姿で奥州の藤原秀衡の領地、平泉に向かう。全国の関所で、義経捜査の尋問が行われる。石川県小松市の海岸、『安宅(あたか)の関』の話は有名・・そんな話はあったか。この安宅の関の話は、歌舞伎十八番(市川家で代々上演されてる演目の中から特に人気の高いものを天保年間に十八選んだもので、ほかに不動・関羽・助六などがある)のひとつ、『勧進帳(かんじんちょう』で登場します。【義経と弁慶は、関守の富樫(とがし)に疑われて尋問されますが、弁慶は、「東大寺の勧進のために諸国をまわる役僧」と偽り、持ち合わせていた白紙の巻物一巻を勧進帳に見立て、東大寺への勧進の趣旨を空読みした。それでも義経が疑われるので、山伏姿の義経を「山伏のくせに義経に似ているとは何事か」と言って、金剛杖で打ち据えた。富樫は義経と気づいていたが、弁慶の主を思う気持ちに、心打たれ、見逃して関の通過を許した】・・という話です。勧進帳は元禄15年(1702年)に初代、市川団十郎が江戸・中村座で上演してから、代々受け継がれ、1840年には河原崎座で7代目、市川海老蔵が弁慶を、8代目市川団十郎が義経を演じ、大入り続きのため、上演が5ヶ月延長されたそうです。また『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』も長期興行で、義経ものがいかに人気が高いかわかりますね。

2月、平泉に到着、藤原秀衡館に身を寄せる。10月、頼りにしていた秀衡(ひでひら)が死去。

★1188年・・2月、義経追討の院宣が藤原泰衡(やすひら)に発せられる。

★1189年・・3月、泰衡、圧力に屈し、高館(たかだて)の義経を攻める。4月、衣川(ころもがわ)の館で義経、自害、31歳の生涯を閉じる。9月、泰衡が殺されて、藤原家が滅亡する。3年後の1192年に鎌倉幕府が開かれる。


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