◆◆平安ゾーンU ◆平安時代の史跡・人々(藤原道長、源義経、後白河法皇etc)
腰越状(こしごえじょう)
2004.12.30
●満福寺
山門写真(京都大覚寺派真言宗・最寄りの駅は腰越・こしごえ)・・『腰越状』で有名な、義経・弁慶ゆかりの寺
腰越は、鎌倉の8つ手前の江ノ電の駅に位置しています。
駅に着くと鎌倉彫りの看板や満福寺の案内があります。
■義経と腰越
義経(当時26歳)は1185年2月・壇ノ浦の合戦で、平家を滅ぼしたのちに、翌年の1186年鎌倉へ頼朝に会いに向かいますが、鎌倉入りを頼朝に拒否されます。
1186年5月
平氏の頭領・平宗盛を捕虜にして、義経は鎌倉の頼朝のもとへ向かうが、鎌倉の手前の腰越で京に返されてしまう。この時の『腰越状(こしごえじょう)』の話は有名です。義経は頼朝に、「謀反の意志が無いことや、源氏のために平氏を倒した想い」を書状でせつせつと訴えますが、聞き入れてもらえず、鎌倉入りは断念せざるをえなかった。
10月、義経は頼朝の兵に襲撃されたあと、11月、吉野山中に隠れる。静御前が捕まる。義経は山伏の姿で逃走する。
●腰越状
義経は仕方なく、この腰越の満福寺にとどまり、有名な嘆願書『腰越状(こしごえじょう)』を書きますが、頼朝の重鎮、大江広元に送って破り捨てられてしまったそうです。この腰越状の下書きがこの寺に保存され展示されています。腰越状には、義経の切々たる想いが凝縮しています。
★腰越状の要約
『天皇の命令の使として、朝敵の平家を滅ぼし、源氏の無念をはらした。自分のこれまでの努力と功績が、ざん言により無惨にもうち砕かれてしまった。自分は犯してもいない罪をきせられ、鎌倉殿の怒りを受けて、血の涙を流した。ざん言の真実が究明されることなく、鎌倉入りを拒否されるのは非常に残念である。父が亡くなったあと、身を隠すために諸国を放浪し、つらい毎日をおくってきた。源氏のために、自らの命もかえりみずたたかってきた。自分は謀反を起こす気持ちは全くない、これは日本のすべての神々に誓い立てる。源氏一族の繁栄を願ってやまない、一日も早く誤解を解いて、愁いを一掃して欲しい・・。と謹んで頼朝宛に書かれています。本文はもっとずっと長い内容になっています。』
●鎌倉彫りの豪華な襖絵
この寺の本堂の襖には、義経・弁慶・静御前の絵が描かれています。本堂がギャラリーのようになっています。奥州へ向かう義経と弁慶・舞う静御前。このほかに、立ち往生する弁慶など多数の襖絵があります。
●『腰越状記念碑』
★この寺のユニークな行事と歌
毎年、この寺では4月に『義経祭り』を行っています。義経公の供養をし、義経・弁慶・静に扮した人が、パレードを行います。そして演歌歌手の小金沢昇司さんも招かれて歌います。歌のタイトルは『義経伝説』です。お寺の入り口で、お守りや絵はがきと一緒にこの歌のCDが売られています。「おもしろいお寺だなー」と思いました。
『義経伝説』小金沢昇司
♪石がころがる 波がころがる 風が巻いて吹く ・・・荒波ほえる海峡を 大陸へ渡った武将がいた・・
歌詞には静御前の名前も出てきます。義経は北海道へ渡った・・という説もあるようですね。住職さんや、お寺あげての応援ですね。
●義経の慰霊碑 ●弁慶腰掛石 この他に義経宿陣の碑もあります。
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