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史跡・ゆかりの祭り

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★大徳寺2.「秀吉、利休との確執2.」 
京都市北区紫野大徳寺町 2006.2
 
聚光院
(じゅこういん・大徳寺塔頭)
・・本堂と茶室は重要文化財

【利休居士が菩提所と定めて以来、三千家の菩提寺として茶人の崇敬を受けています。本堂障壁画は、狩野松栄・永徳によるもので国宝になっています。】


利休ゆかりの茶室・・
@「閑隠席(かんいんせき)」
大徳寺塔頭の『聚光院(じゅこういん)』の茶室。この寺は千利休ゆかりの寺で、利休の墓もあります。一般の人は見学できないようです。この寺に「閑隠席(かんいんせき)」とよばれる、茶室があります。この茶室では、毎月利休を偲ぶ茶会が行われているそうです。
この茶室は、4.5畳の小間(こま)になっています。この広さが茶室の一般的な大きさとされています。これ以上のものは「広間」と呼ぶそうです。
茶室の建物にも「茶の心が通っていなければいけない」そうです


















A如心斎の茶室

聚光院のもう一つの茶室。三畳の茶室。利休のわび茶の精神を受け継ぎながら、利休の茶室よりも明るい陽がはいる設計となっている。天井は、客側が平天井(ひらてんじょう)といって普通の高さで、亭主(もてなす人)の位置は落天井(らくてんじょう)といって一段、天井の高さが低くなっています。これは客に対してもてなす側が一歩へりくだってることを表しています。亭主がへりくだり相手(客人)を立てるというのがもてなしの心だそうです。



B「待庵(たいあん)」・・地味で座禅にも通じる空間

京都府大山崎にあるこの茶室は、
利休の茶室で唯一現存するものとされています。茶室はわずか2畳という極小の空間となっています。素材は当時のありふれた素材で、簡素。床の間の室床(むろどこ)の空間は柱も天井も壁も全て、土壁で塗られていて、きらびやかさを押さえた、簡素・質素なわび茶の心があります。



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利休(1522〜1591)はなぜ秀吉から切腹を命ぜられたのか・・

利休は最期まで
太閤(たいこう)秀吉に対抗(たいこう)していた・・(といってもこの頃は太閤でなく、関白でしたが・・)

天正19年(1591)2月28日、利休(70才)は京都葦屋(よしや)町の邸で切腹した。秀吉側近として信頼を得て、三千石の茶頭として大坂城に常駐する身となっていた利休がどうして秀吉の逆燐にふれたのだろう・・


@利休木像事件・・

天正17年(1589)、利休は私財を投じて大徳寺山門工事を行い、放置されたままの山門に楼閣をのせ、金毛閣を完成させた。この造営を記念して、桜上に雪踏(せった)をはき杖をついた利休自身の木像が安置された。勅使や関白も通る山門の上から、せったばきで見下ろすとは不遜きわまる・・
というのが表向きの理由だった。利休が聚楽第の不審庵から追放されたのはこの事件から1年以上も経ってからのことである。

天正18年(1590)、秀吉は北条氏直の拠点であった小田原城を攻め、北条氏を降伏させたあと、まだ気になる人物がいた。目の上のたんこぶのような存在の側近の利休であった。


A美意識の相違・・

美意識で一歩も譲らない利休に秀吉はキレた・・日頃積み重なった利休への怨念
 

はではでしい豪華絢爛を好む秀吉とわび・さびの質素を重んじる利休との間に美意識に対するずれがあった。派手な九層の大坂城より、質素な建物に利休は価値を見いだしていた。

●秀吉は茶会で赤い天目茶碗を所望したが、差し出されたのは利休好みの黒天目だった・・・。

●秀吉の黄金の茶室を「こどもっぽい」と利休から嘲笑された


B秀吉の弟の死と、茶道具売買での莫大な利益に対する不満

利休が切腹する前の月の1月に、茶道具販売の共同事業を利休と一緒に行っていた秀吉の弟・豊臣秀長が病死して、利休の後ろ盾がいなくなった。
秀長の死によって、秀長・利休による大名から茶道具を売って利益を吸い取る「大名貧困化政策」が各大名から不満として噴出。 

C側近の反感

秀吉の官僚である長束氏や石田三成らも、気分と感覚と人脈でことを動かす利休を常日頃、腹立たしく思っていた。


◎前田利家「利休さん早くわび茶いなさいよ・・」 


前田利家が北政所を動かし、利休の助命嘆願をしたが、利休は死を選んだ。最期まで秀吉に対抗し、己の道を貫き通した。


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利休幻の茶室復元 2006年5月に完成

「わび茶」の心を表現した構造

安土桃山時代、大坂城にあった千利休の邸宅・大坂屋敷の「幻の茶室」が、利休の生誕地・大阪堺市に約420年ぶりに復元される。

茶室は利休切腹後に取り壊されたとみられるが、弟子の山上宗二(やまのうえそうじ)が間取りなどを文書に書きのこしていた。利休の茶室で現存するのは、京都府大山崎町の国宝『待庵・たいあん』だけ。茶室研究の第一人者である京都工芸繊維大名誉教授の中村昌生(まさお・78才)さんが監修し、日本庭園や書院も併設する予定。
茶室は、杉の木や土壁を使った「草庵風」と呼ばれる造りで、4畳ほどの狭い空間には3畳の客座、1畳に満たない手前座、床の間などがある。

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