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創神(そうしん) 織田信長
 津本 陽著 角川文庫 
2005.11

津本 陽・昭和4年、和歌山県生まれ。東北大学卒業。昭和53年、『深重の海』で直木賞受賞。代表作に『柳生兵庫助』『天翔ける倭寇』『下天は夢か』など。故・黒岩重吾さんと親交がありました。

★黒岩さんと親交のあった津本さんの本にも興味がありました。




◇信長からの信玄への贈り物

信長が信玄へ贈り物をしていた時期がある・・というのは意外でした。
いわゆる「遠交政策」です。信長は弁舌巧みな家来を選び、しばしば信玄に贈り物をしていたそうです。豪華な塗り箱を受けとった信玄が、その箱の木地を彫ったところ、いっこうに木地が出てこなかったそうです。漆が何層にも塗られた本物で高価なものに信玄も感動したそうです。自らへりくだって、信玄を牽制し時間稼ぎして、美濃攻略に備えたそうです。作者は、「信長は柔軟な頭脳を持ち、現実的な発想ができた・・」と述べています。

◇信長の兵農分離

武田信玄率いる武田騎馬軍団は強かったが、兵農を分けていなかったため、戦争の無いときには畑仕事をしなければいけなかった。戦場へは農閑期に限られていたため、年に数えるほどの戦しかできなかったそうです。それに比べ、信長は兵農分離を図っていたので、臨機応変にいつでも出動でき、長期化しても、大丈夫だったそうです。

◇信長の合理性・・撤退の名人
敵に背を向けて逃げることは、武将の恥とされていましたが、一時の負けにはこだわらない、大儀のために、被害は最小にとどめる合理性もあったそうです。美濃攻略に7年もかけていて小当たりしては、撤退をくり返し、最後に攻略を果たす・・といった繰り返しだったそうです。作者は、「信長は短気なうつけではなかった」・・と評しています。

◇先入観を持たない・・エリートは必ずしもエリートとにあらず
信長は、浮浪者と呼ばれる連中とも親交があり、情報の収集もしていたそうです。信長は、身分に関わらず、関心を持った相手には自分で会い、判断したそうです。下々の者は、こうした態度が励みになって、実際の戦でも、ゲリラ兵となって力を存分に発揮したそうです。

◆◇信長は一揆の鎮圧など、色々な場面でその残忍な側面も持ち合わせていますが、作者はあくまでも、信長に「神をも仏をも恐れぬ男」と絶賛しています。既成の秩序や常識にほとんどとらわれず、新時代の到来を成し遂げた・・とあります。

●作者の津本さんは、34才でサラリーマンを辞めて、作家に転身するとき「人間は、死ねばおしまい。短い昆虫の一生と同じ、人の一生ははかないあがきにすぎない・・ならば納得の行く人生を」・・と考えたそうです。小説家となって芽が出ないときに、信長の、「危地に生きる姿勢」はおおいに、自分の人生の励みになったそうです。いつひっくりかえるかわからない時期に、信長の死力を尽くして頑張った信長に男のロマンを感じるそうです。英雄というのは、過去の人でも現代人に勇気を与えるのですね。

●また本書はパフォーマンスの得意だった信長についてのエピソードや、光秀の本能寺事件、山崎合戦、秀吉やねね、家康についても言及していて、興味深く読めます。信長についてまったく素人の私ですが、ちょっぴり認識が深まりました。作者があえて、信長を「創神」とした理由もわかりました。


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