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★旧二條城跡・・信長が足利義昭のために建て直した城の跡 

上京区下立売通 2006.4 


永禄12年(1569)、信長が第15代将軍足利義昭のために建て直した城が二條城。現在の二条城の北東に位置する。京都御苑南端に近い。平安女学院の角にある。昭和50年(1975)年から3ヵ年、地下鉄烏丸線建設前に行われた烏丸通りの発掘調査で、信長の二條城の石垣・二重の堀の跡が確認された。

★この頃の信長と足利義昭

この城を建て直した頃(1569)の二人の関係は必ずしも良くない。前年に上洛出陣し、義昭を第15代将軍に担ぎ出した信長はこの年に、16項目に及ぶ「殿中掟」を制定し、将軍とは名ばかりの義昭の傀儡化を断行した。これによって二人は対立を激化させていく。また信長は義昭から副将軍になるよう勧められるが拒否している。そんな中で二條城建設工事が行われていた。

★城建設における公共投資のメリット

大規模な公共事業が貨幣経済を広域化し、市場が一気に拡大した。信長に味方する商人は莫大な利益を得た。そして商人による信長への献金も多額となった。


洛中の全ての鐘を止めた建設工事

工事は2月から始まりましたが、人の集散・作業の終始・昼食休憩時間を一致させるために、洛中の鐘が全て止められ、工事現場の鐘だけ鳴らした。不平等をなくし争いを未然に防いだ信長の智恵・・。しかし工事と無縁の人たちは時間がわからなくて不自由したのでしょうね。


★短命な、悲劇の2つの二條城

@工事着工の翌年の1570年、信長の呼びかけで新しい城で茶会が催された。各地の大名も参集した。この時家康も京都に初上洛している。しかし、天正元年(1573)、義昭は追放され、信長はこの城を焼き払った。この城は着工以来4年で滅びてしまった。(写真)

Aもうひとつの二條新御所・・その後信長は別の地に天正7(1579)二條新御所として城を築き、誠仁親王に献じたが、1582年6月2日、本能寺の変で焼失。信長の長男信忠(26才)と、6男の勝長が自害している。この御所は3年で滅びてしまった。

★3つ目の現在の二条城

家康上洛の際の宿所として築いたものである。今は観光客で賑わっている



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