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◆◆戦国武将の館T. ◆武田氏◆真田氏 

真田氏史跡H 長国寺(ちょうこくじ) 

長野市・松代(まつしろ)町 2005.4.2


●長国寺(ちょうこくじ)には、左甚五郎の彫刻(ちょうこく)があったよ
  



●◆
真田氏の菩提寺・長国寺(ちょうこくじ)

長国寺は、1547年、真田幸隆が真田郷(真田町)に、長谷寺を建てたのが始まりです。信之の松代移封にともなって、現在地に移転し名前を「長国寺」と改めたそうです。


●鐘楼


信之公の御霊屋(おたまや) 破風の鶴の彫刻は左甚五郎の作と伝えられている


●真田家墓所入り口

















真田信之公の墓(右2枚)
















●歴代松代藩主の墓が並ぶ・・六文銭が必ずついています 

★15年ぶりの、信之(50才)と幸村(49才)の兄弟の対面が最期になった

1615年5月、大坂夏の陣の前に兄弟は、小野のお通(京都の浄瑠璃の祖と言われる人で信之が想いを寄せていた女の人・ちなみに歌舞伎の祖は出雲の阿国)の計らいで、京都のお通の屋敷で15年ぶりに再開する。再会した兄弟はいったいどんな話しをしたのでしょう。信之は上田の様子を、幸村は亡くなった父の様子を語ったのでしょうか。

















●幸隆・信綱・昌幸・幸村と大助親子・・・供養塔

幸村と父、昌幸は1600年・関ヶ原の戦いで西軍(秀吉)側について大敗したため、和歌山高野山九度山に配流・はいるとなった。父昌幸は九度山で亡くなったが、幸村は1614年、大坂冬の陣から出陣している。幸村は大阪城に「真田丸」という城を建てたという。その真田丸の跡が今でも残されている。幸村は1615年、大坂夏の陣で戦死、信之は2人の息子を戦地に送り、自分は江戸に残った。

●石の地蔵さん















●恩田杢民親(おんだもくたみちか)の墓・・松代藩の財政を立て直した人。

●古めかしい墓が辺りにあります
















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