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◆◆戦国武将の館T. ◆武田氏◆真田氏

真田氏史跡E ★松代城(海津城) 

長野市・松代(まつしろ)町


2005.4.4


★真田氏10万石・真田10代250年の居城・・北信濃一帯を真田氏が治めた 


●松代(まつしろ)の雪は、真っ白「まつしろ」だった!


●◆
真田信之(1566〜1658・享年93才)

松代藩初代藩主
(真田家3代目・上田藩主2代目・昌幸の長男で幸村の兄)

大坂夏の陣の決戦から8年目の、元和・げんな8年(1622)、幕府の命令により、信之は上田から松代へ国替え(移封)することになりました。真田氏の領地は上田6万5000石に、3万5000石が加増されて、10万石となっての転封で、長男信吉の沼田3万石を合わせると、13万石の大名になります。この数字からいくと栄転ですが、関ヶ原の戦い以降、親・兄弟を敵にして、血筋を絶やさないで家を守った信之は幕府の脅威でありました。信之は家康の養女を妻にしていますが、家康亡きあとも常に結束の固い真田氏は不安材料だったようです。幕府は治安の安定と、真田氏の財力の蓄積を阻止することを目的としました。国替えは多大な財力を使うそうです。

幕府は諸大名に、多額の課役を課して日増しに圧力を強めたそうです。ちょっと問題が起きただけでも即刻、家が取りつぶされる状況にありました。幕府は真田家にも嫌がらせを何度も仕掛けてきて相手の出方を見たそうですが、信之は一国一城の主として、立腹せず、いかなる場合も温順に対処したそうです。

短気は損気、何事も冷静に対処したそうです。幕府の隠密も隙のない信之にはかなわなかったようです。一家の家長が冷静に対処していたら赤穂浪士の忠臣蔵事件も起きてなかったかも・・と思いました。

●大名としての信之の信条・・「領民・家来の幸福を願うこと」・・おのれが進んで背負う苦痛を忍ぶことができぬものは、人の上に立つことを辞めねばならぬ・・屈辱にも貧困にも耐えて忍んで・・兄弟や甥の肉親の悲劇を考えれば、多少の屈辱も何のその・・と思ったのかもしれません。人の上に立つ人は太っ腹で強靱な精神力が要求されます。

●度重なる課役地獄・・信之亡きあとも、お金がたまらない・・たまったものではない・・町民はリッチに、武士は貧困生活を強いられました・・江戸城普請の手伝い・善光寺の普請・富士山爆発による東海道の普請・松代の大火・朝鮮使節の饗応などで藩の財政も底をついてきます。信之の死後、遺産である20余万両は幕府の課役で使い尽くされたそうです。


松代城(海津城)・・
永禄4年(1561)・川中島の合戦で信玄の本陣だった城

●松代城は、永禄3年(1560)、甲斐の武田
信玄が上杉謙信の侵攻に備えて、家臣の山本勘助に築城を進言
したそうです

●平成7年から続けられた調査復元工事が終わり、平成15年に新しく生まれ変わりました
























海津城之碑 ●天守台














●山の景色や千曲川の河川敷がきれいでした












●◆真田宝物館・・宝物のほかに、ペリー饗応の様子も

宝物館の入り口に12代・真田幸治の肖像画(写真)がありました。宝物館には、ペリーが1854年に横浜に上陸したときの様子を描いた大きな絵がありました。9代真田幸教(ゆきのり)の真田藩が、横浜応接場警衛隊として待機しているようすや、部屋の中で饗応している絵もあります。真田藩は開国支援派だったようです。この幸教の先代の8代目にあたる祖父・幸貫(ゆきつら)は、「寛政の改革」で有名な松平定信の二男にあたるそうです。幸貫はその縁で、水野忠邦首班の幕閣に、外様大名ながら老中として参画したそうです。















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