◆◆戦国武将の館T. ◆武田氏◆真田氏
真田氏史跡D 長谷寺・信綱寺
真田町 2005.4.4
◆長谷寺(ちょうこくじ)
真田幸隆夫妻・昌幸の墓所
昔、種月庵と呼ばれていましたが、天文16年(1547年)幸隆が開基となり、上州安中の長源寺から晃運和尚を開山として開いた寺です。その後昌幸によって整備充実され、真田氏の菩提寺となりました。後に信之が松代に移った際、松代に長国寺を建立しました。
●寺の前や庭ににまだ雪が残っていました
●幸隆らの墓は寺の裏にあります・左から幸隆夫人・真田幸隆・昌幸(三男)
●左から幸隆夫人・幸隆・昌幸(三男)の墓。昌幸の墓地は配流となった和歌山県高野山の九度山の地にもあります。
●◆信綱寺(曹洞宗)・・真田信綱夫妻・昌輝の墓所
文録3年の昌幸(信綱の弟)文書によると、信綱寺は兄信綱の位牌所として建立されたと有ります。境内には、墓前の桜という樹齢400年の古い桜があり、宝物館には長篠の合戦で討死した信綱の身体を包んだとされる、血染めの陣羽織や白絹地の背旗が伝えられています
●真田家2代目のお寺とあってひときわ目立つ寺です。お寺が大きくてびっくりしました。
●山門の形も個性的 ●鐘楼
●真田家の長男である信綱は1574年に父幸隆が62才で亡くなったあと、すぐ家督を継いでいます。が、翌年の天正3年(1575)、武田勝頼に従い、織田信長と戦い、長篠の合戦で弟の昌輝と共に討ち死にしました。信綱の首級は敵に持ち去られ、黒漆の甲冑をつけたままの胴体を家臣の白川勘解由(かげゆ)兄弟の手で、真田の地に持ち帰られ、甲冑姿のまま埋葬され、信綱寺に手厚く葬られた。この甲冑は享保年間に信綱寺が移築された際、甲冑が出土し、代々真田氏の宝物として大切にされている。白川兄弟は信綱らを供養した後、殉死したという。
●寺の裏山を登ったところが墓所
●左から信綱夫人・信綱(享年39才)・昌輝(享年33才)の墓
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