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◆◆戦国武将の館T. ◆武田氏◆真田氏

真田氏史跡B 真田氏歴史館 真田町 2005.4.4

真田町・・上田市の北東約10kmに位置し、真田氏発祥の地

幸村は六文銭の鹿角(しかつの)の兜(かぶと)を大坂夏の陣で、かぶっとった。


 



















●◆真田氏歴史館


真田一族の戦いの跡や武具甲冑などの豊富な資料があります。『大坂夏の陣図屏風』には鹿角兜すがたの幸村が支持する赤備えの真田隊が描かれています。




◆歴史館エントランスの六文銭のライト 


◆真田氏のモットー・・『不惜身命(命を惜しまず、捨て身で)、六文銭の旗印を立てよ!』


六文銭(ろくもんせん・六連銭紋ともいう)・・
六連銭は海野(うんの)および真田氏独特の家紋です。紋の異議は、仏教説話の「六道銭」によるもので、六道とは地獄道・餓鬼道・修羅道・畜生道・人間道・天上道を言い、六道能化(のうげ)のため六地蔵に捧げる報賽銭(ほうさいせん)が六道銭です。これを家紋としたのは、柩(ひつぎ)に六道銭を収める風習(死者が三途の川を渡るときに渡し守に払う渡り賃を収める)にのっとったものである。不惜身を唱える武士にとってふさわしい旗印とされ、いつでも死ぬ覚悟で戦いにのぞむ武士の決死の意を表したものである。

◆六文銭
















●◆幸村の活躍

元和(げんな)元年(1615)、5月5日から7日にかけて、徳川軍が20万の兵を集めて大坂城に総攻撃してきた大坂夏の陣で、幸村は、乱戦の合間に、事実でない敵軍の裏切りを流布し、相手を混乱させ、その隙に敵の急所をねらうという作戦もとり、家康は一時、自決に追いやられるほど、危うかったという。幸村の活躍は後世に名をのこす結果となった。(5月7日、落城して秀頼・淀君が自害し、幸村も戦死している)


●◆真田十勇士・・幸村の影武者と忍者の混成集団

明治時代は『真田幸村諸国漫遊記』、大正時代は『真田漫遊記』という真田十勇士の前身ともいえる物語があったそうです。真田十勇士は
大正時代に、講談本の著者や講釈師によって、創作されてきました。その源流は、江戸期の軍記ものや、浄瑠璃と言われています。

十勇士は真田幸村の郎等で、その顔ぶれは
幸村・猿飛佐助(さるとびさすけ)・霧隠才蔵(きりがくれさいぞう)・三好清海入道(みよしせいかいにゅうどう)・穴山小助(あなやまこすけ)・由利鎌之助(ゆりかまのすけ)・筧十蔵(かけひじゅうぞう)・海野六郎(うんのろくろう)・根津甚八(ねづじんぱち)・望月六郎(もちづきろくろう)です。

穴山小助は幸村の7人の影武者のうちのひとりです。影武者は幸村と同じ衣装をまとって、相手を欺くという役割を果たします。物語の中で、
穴山小助は「穴山越すけー?」と言いながら、大坂の冬の陣で、幸村の身代わりになって戦死します。猿飛佐助や才蔵は忍術が専門だったので、十勇士はそれぞれ違った役目を持つ混成集団といえます。

十勇士ははじめから10人いたわけでなく、真田三勇士、七勇士と徐々に増えていきました。これらの人物は実在したのではなく、大正時代になってから、講談や映画に登場した架空の勇士たちです。猿飛佐助・霧隠才蔵などは独立したヒーローとしても物語や映画で取り扱われています。真田ものの小説や映画は、大正時代にベストヒットとなり、とても人気があったそうです。

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