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◆◆戦国武将の館T. ◆武田氏◆真田氏 

真田氏史跡@ 上田城 上田市 2005.4.4

【上田城】
天正11年(1583)に
真田昌幸(当時36才)が上田城を築城
。真田氏2代・仙石氏3代・松平氏7代の居城となる。

●東虎口櫓門(ひがしこぐちやぐらもん・・虎口とは出口のこと・・平成6年に復元された















▲▲上田城の歴史・・実践の舞台となった城は珍しい・・めまぐるしく城主が変わった・・城の下を千曲川が流れる

【真田氏の時代・・真田氏2代、40年在城】

●天正11年(1583)・・
真田昌幸(当時36才)が上田城を築城

●天正13年(1585)・・
第1次上田合戦・・徳川軍8千の大軍を、真田勢わずか2千で迎え撃ち奇襲作戦で打ち破る。

●慶長5年(1600)・・第2次上田合戦・・昌幸(53才)・幸村(33才)親子が合戦で、関ヶ原に向かう徳川秀忠軍と互角に戦い、徳川軍を足止めさせる。そのため、秀忠軍は関ヶ原の戦いに間に合わなくなった。

【仙石氏の時代・・3代、85年】

●元和8年(1622)・・昌幸の長男、信之が松代(まつしろ・・上田の北方)へ移封となり、信長・秀吉に武功のあった仙石忠政が上田城主・藩主となる。

【松平氏の時代・・7代、166年】

●宝永3年(1706)・・
五代将軍の信頼を得ていた松平忠周が上田藩主となる。1万石増えて5万8千石となる。八代将軍吉宗の時代に忠周が幕府の老中になり、以後、忠固も老中として活躍。忠固の3男、忠礼が上田藩知事となり明治を迎えた。

◆南櫓(みなみやぐら 左2枚) ◆北櫓(きたやぐら 右)

















◆真田石・・北櫓の下に大きな真田石があります。昌幸の長男信之は松代(まつしろ)へこの石を、記念に持って行こうとしたが大きすぎて無理だったそうです。


















◆西櫓(にしやぐら 左) 

◆南櫓と北櫓
では幸村の小さなブロンズ像や真田家ゆかりの品が展示されています。スリッパにはきかえて、展示品を見学します。

○信之夫人の遺骸を運んだとされる駕籠(かご)・・
旅の途中の埼玉の鴻巣(こうのす)で、病気で死去した夫人をこの駕籠で上田まで運んだ。大蓮院(夫人)は家康の家臣、本多忠勝の娘で小松殿と呼ばれていました。享年48才。


















●●真田家の主な人々●●●
・・真田は大坂夏の陣・冬の陣で徳川軍を震え上がらせ、真田、日本一の兵(つわもの)と言われました



◆●
真田幸隆(ゆきたか1513〜1574 写真左真田の基礎を築いた

信濃海野(うんの)氏の流れをくむ土豪で、真田郷(上田より北東に10q)の出。幸隆は武田二十四将のひとりで、幸隆の4人の子息(信綱・昌輝・昌幸・信ただ)も信玄・勝頼に仕えた。川中島合戦で幸隆親子は大活躍をする。後、62才で没する。

◆●
真田信綱のぶつな 1537〜1575 幸隆の長男)

父、幸隆が62才で没後、家督は幸隆の長男、信綱(武田二十四将のひとり)が継いだ。
信綱は父親同様の剛勇で、城攻め、野戦の采配は見事であったという。三方ヶ原の戦いでは先陣を命ぜられ、総指揮者として名采配ぶりを見せた。ところが長篠の合戦(天正3年 1575)で武田勝頼が織田・徳川連合軍の鉄砲隊に敗れ、信綱(享年39才)・昌輝(享年33才)兄弟が討死にした。この時、弟の昌輝(まさてる)は、「鉄砲隊の方がマサッテル!」と叫んだそうです。

◆●
真田昌幸(まさゆき1547〜1611 幸隆の三男 写真左

戦国の一大戦略家・上田城を築いた。
生き残るために親・兄弟のかつての敵とも手を組んだ。「忠義」なんて言ってたら家がつぶれちゃうよー!


二人の兄を長篠の合戦で亡くした三男の昌幸は、甲州武藤氏の元から真田に帰り、家督を継いだ。昌幸は父の意思を受け継ぎ、上州経路を進め、1580年、沼田城を攻略して上州での真田氏の基礎を固めた。武田家が滅びたあと、昌幸は時流に乗り、
織田・北条・徳川と巧みに主従関係を結び、知謀(ちぼう)戦略で戦国の動乱期を切り抜け、真田の本領、上田を手中に収め戦国大名の地位の確保に努めた。1600年、関ヶ原の戦いで西軍(秀吉)についたが、大敗したため、二男幸村と共に紀伊(和歌山県高野山山麓の九度山)に配流され、この地で64才で亡くなる。

◆●真田幸村(ゆきむら 本名信繁 1567〜1615 昌幸の二男 写真右

幸村という俗称で、「真田」と聞くと、この人を思い浮かべる人が多い。大坂冬の陣・夏の陣には配所を抜け出して、大坂城に入り、徳川軍を攻め、大活躍をした。が、この戦いで幸村は長男大助と共に、戦死した。享年49才。

◆●
真田大助(幸昌 1602〜1615 昌幸の孫・幸村の長男 写真左 わずか13才で父幸村と参戦 自害

父幸村と共に、大坂冬の陣・夏の陣で参戦。父から豊臣秀頼を守るように、命ぜられ、大坂城中に入る。元和元年(1615)5月大坂城落城の際、秀頼に殉じ、自害して果てた。享年13才。


◆●真田信之(1566〜1658 昌幸の長男・幸村の兄)・・肉親同士戦ったのは真田家を滅亡させないため

関ヶ原の合戦(1600年)以降、父昌幸と弟の幸村が西軍(秀吉)につき、信之は東軍(徳川)について戦った。「真田の家を守るため」に、信之はあえて、東軍についた。肉親同士戦うのは本当はいやだったと思う。でもこれしか生き残る方法は無かったと思う。1622年、信之は徳川より、上田から長野市松代(まつしろ)に移封(いほう)を命ぜられる。関ヶ原以来、親兄弟を敵にまわして家を守る信之に、徳川はいつも脅威を感じていたのである。享年93才、天寿をまっとうできた。

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