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◆◆戦国武将の館T. ◆武田氏◆真田氏 

武田氏史跡E 景徳院(けいとくいん)・・天目山の麓の大和村田野

武田氏終焉の地
 2005.2.14


■景徳院

勝頼が滅亡したあと、徳川家康が
勝頼等一族の菩提を弔うため、家臣尾畑勘兵衛に命じて建立されたのがこの寺である。僧拈橋を開山として田野寺(現景徳院)を建立した。現在本境内には、県指定の勝頼主従の墓とその位牌をまつる甲将殿がある。勝頼公、北条夫人、信勝公が自害した生害石があり、甲将殿の裏には勝頼公をはじめ将士の墓がある。伽藍は度重なる火災で焼失しているが山門だけは当時の面影を残している。

●山門 ●境内の灯籠 






















●鐘楼 ●つくばい




















●勝頼(左)・北条夫人生害石・3人の墓

天正10(1582)年、勝頼一行は完成間近な韮崎(甲府の西)の新府城に火を放ち、勝沼方面へ向かった。3月3日に勝沼の大善寺に泊まり、3月4日に駒飼に着いて小山田の迎えを待ったが、小山田の謀反に合い天目山を目指した。途中、織田の軍勢が迫り、わずかな家臣で防戦したが、3月11日、天目山の麓の田野でついに親子、夫人と共に自害した。勝頼37才、信勝16才、夫人19才と若くしてこの世を去った。この時従った家臣は50名にすぎなかった。








































●墓近くの首洗いの滝とつくばい ●境内の灯籠






















■武田氏の簡単な系図と武田氏最後の悲運の武将・四男勝頼

四男勝頼に家督相続をしたが、信玄の死を隠すのは至難のわざだった。武田氏弱体の原因は信玄の死なんです。

信玄公が天正元年(1573)4月12日(享年53才)に亡くなってから、死は伏せられていたが、同年6月に勝頼が家督を継いでから、全国に信玄は亡くなったのではないかという噂が広がった。これを機に信長は足利義昭を京都から追放し、室町幕府を滅亡させた。さらに近江の浅井長政、越前の朝倉義景を打ち破り、滅亡させた。信長包囲網は崩れ去り、武田氏滅亡に拍車をかけた。信玄死すの噂が、信長を奮い立たせてしまったのだ。


★四男の勝頼がなぜ家督を継いだか

信玄と正室三条夫人との間に生まれた長男義信は1567年、謀反の罪で幽閉された先で自害(病死説も)して、30才の生涯を閉じた。兄の死後、次男竜宝は盲目、信之は10才で早世している。三条夫人は1570年、信玄が亡くなる3年前に50才で他界したが、次々に襲う不幸に、失意の中、一生を終えたという。信玄も同じ想いであったと推測される。

★勝頼の背景

勝頼は天文15(1546)年、信玄の4男として生まれた。母は側室諏訪頼重の娘の諏訪御料人である。信玄は諏訪頼重を滅ぼしているので、諏訪氏との関係を修復したいと考えた。が、この婚姻は滅ぼした相手の娘なので、周囲の反対を押し切ってのことだった。諏訪御料人は美しかったので、諏訪氏との関係修復の意図の他に、信玄がたいそう気に入っていたとも思われる。勝頼の名前に「頼」がついているのは、諏訪頼重の一文字で、このことからも武田氏から異端視されていたことがわかる。信玄の亡きあと、家督を勝頼が継ぐにあたって、家臣から反発もあったという。勝頼は、天正2年から3年(1574から1575)にかけて織田・徳川の諸城を次々に攻め落とし、信長・家康に打撃を与えた。信長は上杉謙信に「勝頼は信玄の掟を守り、若輩ながら、なかなか優れている。なかなか恐るべき相手である」と記し書状を送ったという。

★勝頼の悩みと武田家の弱体化の背景

1.父の死を隠さなければいけない 
2.影武者の叔父への気兼ね 
3.信玄の家臣だった者と自分の家臣との対立の板挟み 
4.勝頼を支える有能な側近の不足 
5.信玄の遺言に従っていたずらに兵を出せない 
6.信長の財力と武田家の財力の相違・・信長は豊富な財力で鉄砲を大量に手配できたが、武田は財力が乏しいので鉄砲の代わりに、農民をかり出すしかなかった。


◆武田氏の滅亡

1573年・・信玄が信州伊那駒場で53才で病死する。家督は信玄の子、勝頼が継ぐ

1574年・・信虎が信濃高遠で病死する

1575年・・勝頼、長篠の合戦で織田・徳川連合軍に大敗する。

1582年・・織田軍に追われた勝頼(37才)は天目山の途中で夫人(19才)と信勝(16才)と共に自刃する


★武田氏滅亡(1582年3月)後の3ヶ月後、本能寺の変で信長も去る
(享年49才)

信長は武田家一族や家臣を血なまこになって探しだし次々に処刑した。人間ばかりでなく、恵林寺をはじめとする武田氏ゆかりの神社仏閣は焼き討ちされた。信長の武田氏に対する憎悪の念はすさまじかった。勝頼が亡くなった同年、明智光秀の謀反により信長も亡き人となる。

★武田氏のその後

信玄の6女、松姫は、八王子に逃れ、八王子に織物を広めた。1616年、56才で死去した。徳川家康は甲斐の国を治め、武田の家臣を呼び戻し、保護し政治の舞台に登用した。
武田氏の末裔の方が新宿にいらっしゃるとか。

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