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◆◆戦国武将の館T. ◆武田氏◆真田氏

武田氏史跡C 恵林寺2. 

山梨県・塩山市
 2005.2.14


◆信玄の遺言

信玄は死期が近づいた時、「私の運命はこれで終わった。・・・・・都(京都)に旗を立てずに死ぬことは誠に残念である。私が死んだとわかったら敵がのは必然のことである。3年間、秘密にして、その間は、国内の備えを固め、兵を養い、時期を見計らって、
必ず一度は都に攻め上れ。たとえ死してもそれに勝る喜びはない」と遺言したという。

信玄は死の直前、「明日瀬田(近江)に旗を立てよ」と呟いたとされる。最期の最期まで戦闘を意識してこの世を去った。


◆信玄の御遺訓(写真;武田不動尊の碑)

「およそ軍勝五分を持って上となし、七分を中となし、十分を持って下となす。そのゆえは、五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は驕り(おごり)を生ずるがゆえ、たとえ戦に十分の勝ちを得るとも、おごりを生ずれば次には必ず敗れるものなり。すべて戦いに限らず、世の中のこと、この心がけが肝要である。

油断は禁物・勝って兜の緒を締めよ(勝っても兜の緒をゆるめてはならない。勝利におごることなく次の戦いに対処せよ・・戦国時代はまさに緊張の連続・・現代社会も緊張の連続・・生きるとは緊張の連続なり)


◆信玄の影武者

1572年、信玄は亡くなる1年前から病気で体が衰弱していた。病気や死が相手に悟られると攻撃されるのでそれを隠すために、信虎の三男・信玄の弟の信廉(のぶかど)を影武者にした。信廉は信玄に顔も声もそっくりだったという。信玄の影武者はそのほかにも数名いたという。1980年に放映された『影武者』では信玄そっくりの替え玉が長篠の合戦に挑むというストーリーだったようです。

信玄の死後も勝頼を初め、武田の家臣は遺言通り、信玄の死を隠したという。館に現れた北条家の重臣には信玄の代わりに、信廉を病床の床に伏せさせたという。勝頼は家督は継いでるものの、時には影武者の叔父の指示にも従わねばならず、苦労したそうです。また信玄は病床の淵にありながら自分のサイン入り、花押入りの白紙の手紙を万が一に備えて、800枚準備したそうです。信玄は若くしてこの世を去りましたが、後の武田家を憂い、心配しながら他界していったと思います。信玄が長生きしていたらまた違った歴史が展開されていたと思います。



◆信玄は1573年、53才で亡くなったあと3年間、秘密にされていたが長篠の合戦の直前の天正3年4月に、3年忌の法要が行われた。翌年、信玄の葬儀が行われ、墓に納骨された。



●武田信玄公のお墓・・五輪塔と左は供養塔。この墓は百回忌の時に建てられた  

●武田家臣の供養塔・・・供養塔の後ろには70基の家臣の墓がある。武田二十四将の墓もある 















 



●柳沢吉保夫妻の墓

徳川家康がが恵林寺の再興をした後、柳沢吉保が信玄の法要を行ったり、寺の修復にあたった。吉保の墓があった永慶寺(山梨県甲府)は、子の吉里が大和郡山に移封した際、幕府によってとり壊され、吉保夫妻の墓は恵林寺に改葬された。

柳沢吉保(1658〜1714)は江戸中期の老中。館林藩主徳川綱吉の家臣・柳沢安忠の子として生まれ、父の跡を継いで、1688年、将軍綱吉の側用人となった。1694年に川越藩主7万石、老中格となり、1701年に美濃守吉保となる。1704年、甲府藩主15万石となり、1709年綱吉没後、子吉里に家を譲った。政治の他に学問にも力を注いだ。





●境内の三重の塔 ●庫裡(くり)の武田菱の鬼瓦

























●五輪塔  ●灯籠 
























 ●中庭















◆境内の食事処『一休庵』

●信玄弁当(信玄が合戦時に現地調達して食べたという弁当)

●樋口一葉せんべい(一葉の親は塩山の出身・・お札せんべい)



















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