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◆◆戦国武将の館T. ◆武田氏◆真田氏

◆武田氏史跡@ 

積翠せきすい
 甲府市積翠寺 

2005.2.14


◆武田信玄の信念

『人は城、人は石垣、人は堀り、情けは味方、仇(あだ)は敵』・・・部下や民の人心を大切にした



【武田氏の簡単な背景】

武田氏は清和天皇の流れをくむ甲斐源氏である。16世紀の初め頃、甲斐の国では、武田守護職(しき)の座をめぐり内乱が勃発した。その内乱を治めたのが武田信虎(1494〜1574年 信玄が亡くなった翌年に81才で他界した)である。信虎は甲斐の国を統一し、26才の時に石和から甲府の北側に、館を移した。


武田信玄(1521〜1573年 享年53才)

信玄は4回、呼び名が変わったそうです。1回目は『勝千代』(信玄が生まれた頃、福島正成の乱入を信虎が成敗して、戦勝記念にこの名前が付けられた)→幼名『太郎』→元服時(16才)『晴信』(将軍足利義晴の晴の一字を賜わった)→『信玄』(永禄2年に得度して信玄と名乗った)。武田信虎は躑躅(つつじ)ヶ崎館の北方2qの山に要害城を築いた。戦乱を避けるため信虎の夫人はこの城で信玄を産んだ。この要害城の下に位置する積翠寺(せきすいじ)には信玄産湯の井戸がある。


【信玄の無血革命】・・

信玄(当時21才)や重臣は、1541年に信虎(当時48才)に娘婿の駿河今川義元の元へ行くように進言した。信虎は気をよくして保養のつもりで出かけたが、このときを境に甲府に戻ることはなかった。信虎は駿河に追放され、無血革命となった。信玄は追放のあとも礼を尽くしたという。なぜ追放されてしまったかというと、信虎は国力の増強のため、独断・武力の先行・過酷な税などで領民の恨みの的になっていた。また重臣の意見は聞き入れずに、反対する者は容赦なく斬ったという。信玄は父の独断政治に杞憂し、ひそかに心ある重臣たちと相談していたという。信虎は信玄を疎外することが多く、すぐ下の弟の信繁をいたくかわいがっていたそうです。信虎と信玄は意見が食いちがい、信虎にとって信玄は目の上のこぶ(目障り、邪魔者)のような存在だったのかもしれません。


【信玄は文武両道の努力家】

信虎の暴政が反面教師となり、信玄が立派な大将となるきっかけにつながった。

信玄は、少年期から兵書を学んだ

『孫子』『呉子』『慰繚子・うつりょうし』『六韜・りくとう』を読み、民政・軍事について学び、
国主として自我を捨て、臣下や領民と共に生きることを人生の目的とした。民政に尽くし、分国法を制定し武士も領民もこれに従った。

孫子の旗(写真;武田神社・宝物館ポスター)

武田軍団象徴の風林火山の旗といえば、孫子の旗のことである。出典は『孫子』第七軍争による。筆は信玄の心の師、快川国史によるとされる。

風林火山・・・『はやきことの如く、 しずかなることの如く、 侵略することの如く、 動かざることの如し』

(疾風のように行動するかと思えば、林のように静まりかえる、烈火の勢いで襲撃すると思えば、泰山のように微動だにしない)

孫子の五つの教え

道・・上下の和  
天・・自然・時間  
地・・地理  
将・・知謀・勇気  
法・・軍の編成・規律 


政治・経済

『甲州法度之次第』
を制定し政治を安定させる。信玄堤を築いて甲府盆地を水害から守った。金鉱開発が行われ甲州金を造り、軍の有力財源とした。

外交政策・・戦わずして勝つ

外交政策・・甲斐 駿河 相模の三国同盟を結ぶ

有名な合戦

川中島の合戦(1553〜1564年・・5回にわたる戦い)・・1561年第4次川中島の戦い・・山本勘助の作戦(きつつき戦法・・武田の2万の兵を2つに分けて、上杉の軍勢1万3千の兵を挟み撃ちにする)。1572年・・三方ヶ原の戦いで家康軍に大勝する。


■積翠寺(せきすいじ)

●十三重塔 ●寺の裏手にある、信玄公産湯の井戸
























●寺の庭園 ●この付近の信玄隠しの湯・積翠寺温泉
















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