◆◆江戸時代 ゆかりの地

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★泉岳寺(せんがくじ・港区高輪)

浅野家の菩提寺・四十七士の墓所 2005.3

■山鹿流(やまがりゅう)陣太鼓・・山鹿素行流の兵法によって討入りした


◇◇忠臣蔵の簡単な背景・・2つの事件


@事件の発端となった「刃傷松之廊下」・・


浅野匠頭(たくみのかみ)は
「勅使御馳走役(みだいごちそうやく)をやって・みだいとは思っていなかった。


●元禄14年(1701)2月4日、赤穂城主浅野匠頭長矩(たくみのかみながのり)は、勅使(みだい・東山天皇)参向の饗応(きょうおう)の勅使御馳走役(みだいごちそうやく)を、幕府から命ぜられました。数ある行事の中で勅使の参向は最も重要な儀式とされていました。儀式典礼の指導に当たる勅使御取囃し役(みだいおとりはやしやく・・接待役)は吉良上野介(こうずけのすけ)でした。

浅野匠頭は吉良
上野介に日頃から何らかの不満を持ち、
同年3月14日、江戸城殿中松之廊下に於いて刃傷に及びました。幕府は即日の夜、一関藩主田村右京太夫の屋敷で浅野匠頭に切腹を命じました
これを聞いた赤穂の家臣は、みんな怒り心頭しました。

●刃傷に至った原因・・


吉良を憎く思う何らかの原因が重なってのことです。吉良による度重なるいじめ説が有力です。いじめの原因として「吉良への贈り物が足りなかった」「赤穂の塩業の仕方を教えなかった」など諸説がありますが、はっきりした原因は誰にもわかっていません。饗応の準備をめぐって、ふたりの間に様々な行き違い、手違いが生じたと思います。饗応の所作は、接待の仕方をひとつまちがえると、お家が取りつぶしになるほど、神経をとがらす行事でもありました。
双方、疲れとストレスでピリピリしていた時に、事件は会議室でなく廊下で起きました。

A吉良邸討入り・・浅野匠頭家臣の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)と同士46人は、刃傷事件以来、1年10ヶ月(閏卯年で1ヶ月多い)の準備期間を経た後の、元禄15年(1702)12月14日夜吉良邸に討入り、吉良上野介の首を挙げて主君の復讐を遂げました。
●吉良邸(きらてい)は報復を恐れ
本所一ツ目の新屋敷2550坪に、砦・水濠・木柵(もくさく)を設け不測の事態に備え常時百余名の上杉侍を待機させたそうで

●討入りの目的・・
主君への忠義・即日切腹を命じて片手落ちの処遇をした幕府への異議申し立て


◇◇泉岳寺
(せんがくじ・曹洞宗・そうとうしゅう)


泉岳寺は慶長17年(1612)、徳川家康が外桜田の地に立てた曹洞宗のお寺です。寛永の大火で焼失しましたが、毛利・水野などの大名によって、現在の地に建て替えられました。泉岳寺は、徳川に因み、「源の泉、海岳に隘るる」の意からつけられたそうです。

討入りをした翌日の12月15日、四十七士たちは、泉岳寺に向かい主君の墓前でその報告をしました。幕府は義士たちの身柄を大名に預けた後、元禄16年(1703)年2月4日切腹を命じました。その遺骸は主君の墓側に葬られました。同士の寺坂吉右衛門は、討入の後、大石の命を受け、生き証人として長矩公夫人や赤穂の遺族に復讐の一部始終を報告して廻りました。切腹に至らず83才で亡くなったそうです。泉岳寺の墓は、慶応4年(1868)6月供養のために建てられました。

(写真の四十七士の看板は「泉岳寺」の駅にあったもの)


●大石内蔵助良雄銅像 ●泉岳寺中門 ●泉岳寺山門



●境内から見た山門 ●社務所 




















●史蹟 赤穂義士墓所 ●浅野匠頭血染めの石・・田村邸での自刃の場にあった石 ●商人天野屋利兵衛の慰霊碑


















●吉良上野介首洗い井戸 ●墓地でお線香を売ってくれる人 


















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