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★池田屋騒動1. 池田屋騒動址碑@

■パネル「池田屋騒動顛末記」


中京区三条通小橋西入る 2009.2



文久三年(一八六三)嵐のように吹き荒れて尊攘派の倒幕運動も沈静化の兆しを見せ始め、幕府は市中の治安回復にに向け、なお一層の取り締まりを行っていた。その先鋒を努めたのが、京都守護職直属の新選組でした。

元治(げんじ)元年(一八六四)六月五日(祇園祭宵々山 現七月十五日)早朝、新選組は、かねてより探索していた、四条小橋西で薪炭商を営む桝屋喜右衛門こと、古高俊太郎を捕えた。実は古高は、倒幕派の近江郷士で土蔵から武器や具足が発見された。

古高を壬生屯所に連行し、土方が厳しく取調べた結果、御所を焼き討ちし守護職の松平容保を襲う計画が発覚する。近藤は直ちに、守護職、所司代、奉行所、会津藩に通報し、夜五つ刻(九時頃)祇園会所で会津藩兵と待ち合わせる。しかし、会津藩は約束の五つになってもこない。痺(しび)れをきらした新選組は、浪士狩りを一刻の猶予も出来ないと近藤隊は鴨川西側木屋町を北へ、土方隊は鴨川東側縄手を北へと二手に別れて潜伏場所の茶屋、商家、旅宿等を御用改めして行った。一方、古高が連行されたことを知った倒幕派は、新選組の屯所を襲撃し、古高を奪還すべしと主張し潜伏中の倒幕派に、三条小橋西の旅篭「池田屋」に集合するよう回状が送られ、長州藩士桂小五郎も池田屋に(八時頃)来たが、早く来すぎて誰もいないので、池田屋裏の対州藩邸に寄っていたので難を逃れたという。

近藤隊が三条小橋付近についたのが十時頃、一軒の宿屋「池田屋」に明かりが漏れていることに不信を抱き、十名のうち、六名で表口、裏口をかため、近藤、沖田、永倉、藤堂の四名で屋内へ。近藤は宿の者に「御用改め」であると告げると主人池田屋惣兵衛が慌てて二階に駆け上がり、後を追って近藤が二階に上がると、そこには集会中のの諸藩の倒幕派二十数名がいた。沖田が立ち向かってきた男を斬り、すぐに乱闘になった。屋内で闘う者、二階から外に飛び降りる者、階段を駆け下りる者を隊士が迎え撃つ。途中から土方隊らが加わった。闘いは三時間ほど続き、近藤隊からは一名死亡、藤堂、永倉が負傷し、倒幕派は肥後藩士、宮部鼎蔵他六名が斬死した。一方、予定時間を大幅に遅れて会津藩五百名が到着したころには、すでに戦いは終わっていました。この事件で倒幕が一年遅れたといわれるほど、倒幕派は大きな痛手を被りました。一方この事件によって新選組の勇名は世に轟くことになったのです。




■立札「池田屋騒動址」













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