◆◆江戸時代 ゆかりの地

江戸時代・目次に戻る

トップページに戻る

本妙寺・・赤穂義士ゆかりの寺 

京都市左京区仁王門通東大路東入る
 2008.12


祥光山と号する日蓮宗の寺院である。寺伝によると、正和4年(1315)、日蓮の法孫日像が洛北岩倉の地に巡行の際、代官渡辺氏が帰依し、その邸宅を寺として創立したが、程なく中絶した。天祥2年(1574)、本山妙覚寺18世日興が再興した。その後、宝永5年(1708)の大火で類焼したが、享保13年(1728)、7世日世が現存の重層造りの本堂を再興した。

寺の鎮守鬼子母神像は大覚自作、日像開眼で安産守護で広く知られている。通称「義士の寺」とも言われ、義士の討ち入り、本懐自刃後、宝永元年(1704)、京都在住の赤穂浅野藩御用商人綿屋善右衛門が、当寺を菩提寺と定めていた貝賀弥左衛門、その兄・吉田忠左衛門、その子・澤右衛門の三義士と、貝賀の妻・おさんの4名を合祀石碑を建立している。

貝賀の子孫9代目斎藤トラが、昭和5年(1930)、義士の遺品5品、遺墨70余点を納めたので、義士堂を建立、祭られている四七士の木像とともに、毎年12月14日の元禄義挙記念祭に一般公開している。(京都市)





























●鐘楼


●宝物館







江戸殿中・松之廊下刃傷事件

元禄14年(1701)2月4日、赤穂城主浅野匠頭長矩(たくみのかみながのり)は、勅使(みだい・東山天皇)参向の饗応(きょうおう)の勅使御馳走役(みだいごちそうやく)を、幕府から命ぜられました。数ある行事の中で勅使の参向は最も重要な儀式とされていました。儀式典礼の指導に当たる勅使御取囃し役(みだいおとりはやしやく・・接待役)は吉良上野介(こうずけのすけ)でした。

浅野匠頭は吉良上野介に日頃から何らかの不満を持ち、同年3月14日、江戸城殿中松之廊下に於いて刃傷に及びました。幕府は即日の夜、一関藩主田村右京太夫の屋敷で浅野匠頭に切腹を命じました。赤穂の家臣は、怒り心頭しました。


●刃傷事件の原因

吉良上野介は朝廷と幕府(将軍綱吉の時代)の橋渡しをする高家の出自。高家は身分は高いが、俸禄は大名の半分。吉良上野介は一国一城の主である大名・浅野内匠頭に対して鬱屈した念を抱いていたという説がある。
吉良による度重なるいじめ説が有力なのもこの説と合致します。

いじめの原因としては浅野が大名だったことの他に、「吉良への贈り物が足りなかった」「赤穂の塩業の仕方を教えなかった」など諸説がありますが、はっきりした原因は誰にもわかっていません

饗応の準備をめぐって、ふたりの間に様々な行き違い、手違いが生じたと思います。饗応の所作は、接待の仕方をひとつまちがえると、お家が取りつぶしになるほど、神経をとがらす行事でした。

●赤穂浪士の吉良邸討入り・・元禄15年(1702)、12月14日。

主君の仇討ちの話は武士の鑑として『仮名手本忠臣蔵』などによって後世に伝えられてきました。山鹿太鼓や、討入りの装束は実際には目立つので無かったそうです。


★四十七士記念義士祭 2012.12.14

●赤穂浪士・四十七士の木像を安置した宝物館で義士追悼の法要が行われました



























●本堂と本堂前の菊の花












●討ち入りそば

大石内蔵助良雄を頭とする義士達は、討ち入り前夜、江戸本所のそば屋に集結し、そばやうどんを食べたという逸話があることから、全国の義士祭では、そば(有料)が振る舞われています。

緋毛氈の向こうに見える紫幕の建物が、法要が行われた宝物館。












江戸時代・目次に戻る

トップページに戻る

SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO