◆◆新撰組の部屋 史跡をたどる
金戒光明寺
(こんかいこうみょうじ)
●新撰組発祥の地
●会津藩の要害城となった寺
京都市左京区黒谷町 (2006.10)
知恩院・知恩寺・清浄華院に並ぶ、浄土宗4か山の一つ。通称「黒谷・くろたに」と呼ばれています。承安5年(1175)、法然が43才で比叡山をおりて念仏道場を開いたのが始まり。この寺は幕末、会津藩の要害地ともなりました。寺には会津藩祈願のための仏画があります。家康の念持仏である阿弥陀如来像(黒本尊)の真影の仏画とされています。
●せいしまる銅像
法然(1133〜1212)の幼少時の名前が「せいしまる」。
●山門・・後小松天皇の勅額が桜上正面にあります。1860年に建てられました。とても大きな山門です。
●寺と会津藩の関係
●新撰組発祥の地2.
幕末の京都は治安が悪化し、強盗や殺戮が日々繰り返されていた。業を煮やした徳川幕府は文久2年(1862)、治安維持のため京都守護職を置くことにした。この役職に十四代将軍・徳川家茂から任ぜられたのが会津藩主松平容保(かたもり)。役料五万石・金三万両を与えられた。会津藩は倒幕運動の矢面に立たされるので、当初この話を何度か固辞したという。会津藩家老の西郷頼母(たのもう)は、「薪を背負って火を防ぐようなもの」と反対したが、容保は藩祖(三代将軍家光の異母弟・保科正之)の家訓を守り承諾するに至った。
そして会津藩松平容保は、家臣1000名を率いて文久2年(1862)12月24日上洛。この黒谷金戒光明寺に本陣を張った。
1863年3月12日・・京都に残ることを決めた近藤勇・土方歳三ら17人の浪士隊は、東山・金戒光明寺で陣を張る京都守護職の松平容保(かたもり)に挨拶して、新撰組となった。新撰組の誕生である。京都の治安部隊となる。残りの浪士隊は翌日の13日、江戸へ帰る。
★この寺が選ばれた理由
@御所まで2km、東海道の発着点まで1.5kmと近く、いざというときに対応しやすい
A小高い山に位置しているので、自然の要塞・城の役割となる地形
B宿坊が大小52もあり、1000人の駐屯が可能だった
●1863年から1866年に亡くなった会津藩殉難者の墓所(塔頭・西雲院)
300坪の広さで、蛤御門の変などで落命した257人の会津藩士の墓や慰霊碑があります。