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史跡・ゆかりの行事

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■阿弥陀寺(あみだじ)1. 上京区寺町今出川上四丁目 

2006.6.2


☆信長公の法要に出席しました・・場所は寺の本堂(ほんどう)・・これってほんどう(ほんとう)?

★小さなお寺で信長は眠っていた

信長が帰依した、清玉上人(せいぎょくしょうにん・天文年間・1532〜1554)開祖の浄土宗のお寺。創建当時は今出川大宮にあり、その規模は壮大であったそうです。天正15年(1587)、秀吉の区画整理でその規模は64分の1となって、この地に移りました。















信長の遺骸・・大正時代まで秘密にされていた

本能寺の変の際、清玉上人(せいぎょくしょうにん)は塔頭の僧徒20余名を召し連れ、本能寺にかけつけたが、表門は厳重に軍兵四方を囲み、寺内に入ることができなかった。裏道よりかろうじて入るが堂宇に火が放たれ、すでに信長公は割腹せられしと聞き、そばの竹林に10人余の武士集まって火を焚くものがいた。上人がこれを見ると信長の家臣だった。家臣にことの次第を聞くと、信長公は割腹の時、「絶対死骸は敵に渡すことなかれ」と遺言したとのこと。しかし、四方敵兵にて死骸を抱いて連れ去ることは無理だった。やむなく火葬して隠して自分たちは自害すると家臣一同が答えたとき、上人は「私と信長公は格別の由縁があるので、火葬はもちろん、将来も私が追悼していきたい」と家臣らに頼んで、さらに、「各々、いま自殺するより、どうせ死ぬなら信長公のために敵にあたって死んではどうか」と語ったところ、家臣らは大いに喜び門前の敵に向かうすきに、上人が火葬し、白骨を法衣につつみ、本能寺の僧徒が逃げるのにまぎれこんで寺に帰り白骨を深く土中に隠したという・・・(寺に伝わる)



















★★法要・・南無阿弥陀仏・・織田家の人々は勿論、報道陣も詰めかけていました 

法要は、本堂で行われました。
まず@「ご詠歌」から始まりました→Aテープで雅楽が流れました→B5人の僧侶が本尊向かって右の清玉上人(せいぎょくしょうにん)にお参りします→C着席して読経をします。壇信徒も唱和します(南無阿弥陀仏・・・)→D本尊向かって左の「信長公・信忠公・信広公木像」、「森蘭丸・森力丸・森坊丸位牌」に僧侶がお参りします→E再び読経が続きます→Fご詠歌をご詠歌隊の人たちと僧侶が大きな声で詠います→G読経・南無阿弥陀仏・・→終了・・H雅楽のテープが流れる(時間は50分ぐらい)


●法要が始まった時は、本堂からあふれるほど人が詰めかけました。

●本尊の阿弥陀如来

●本尊向かって右に安置されている清玉上人(せいぎょくしょうにん)、後方は仏。本尊向かって左には「信長公・信忠公・信広公木像」、「森蘭丸・森力丸・森坊丸位牌」があります。

●正親町天皇よりこの寺に御寄贈された「楽器三鼓」が信広公木像の前に置かれています


















◎本堂の一角に展示されている展示品(一部)

●織田家軍織 ●お市

●信長公手槍
本能寺変に於いて本人が用いてた槍

●信長公鞍覆(くらおおい)

☆★このほかに、「信長公弓懸・ゆがけ」・「本能寺変討死衆位牌拓本・114人分」・「本能寺変討死衆過去帳・・信長・信忠、以下106名の法名と俗名が記載されたもの」・「明智光秀連署状」・「松永久秀書状」なども展示されていました。



















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