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★応仁の乱ゆかりの地  (2006.5.18)


●応仁の乱勃発の地・・上御霊神社

かみごりょうじんじゃ 上京区上御霊竪町

祭神として崇道天皇(早良・さわら親王)、吉備真備はじめ十三柱(しん)の神霊を祀る。延暦13年(794)、平安遷都に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良・平安時代初期に不運のうちに亡くなった八柱(しん)の神霊を祀ったのが始まりです。後、明治天皇の御願により祭神五柱(しん)が増祀されました。


●御霊神社鳥居の前に「応仁の乱の説明板」や、「応仁の乱勃発地」の碑があります

山名宗全(やまなそうぜん)が畠山義就(西軍)に加わってから、余計に騒然(そうぜん)となった!


◎細川勝元(かつもと)は「
きょう(今日)、カツをモットくれないと加勢しないヨ」と、畠山政長(東軍)に言った・・恐喝(キョウカツ)はいけないよ!



御霊合戦・・8代将軍足利義政の時代に内乱が勃発。足利義政の優柔不断な態度が事態を悪化させたという説もあります

文正2年(1467)、正月18日、
上御霊神社の森で応仁の乱が始まった。失脚した畠山政長(東軍)と畠山義就(西軍)の家督をめぐっての争いである。17日、政長は自邸を焼いて一族や奈良の成身院光宣らと兵約2千を率いてここに布陣した。翌、18日早朝、義就が兵3千で攻撃をしかけ、終日激しい戦いが続いた。義就方には朝倉孝景ついで山名宗全(やまなそうぜん)が加勢した。しかし、政長方には細川勝元がこの段階では動かなかった。結局この戦いでは政長方が敗北した。これが応仁の乱の前哨戦となり、勃発の地となった。3月に年号が応仁と改まり、両陣営は戦闘態勢を固め、5月から上京を中心に東西両軍の全面的な戦いに突入する。

















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