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★聚楽第跡1.

上京区南西部 平安京大内裏跡一帯
 2006.5.8
 

●聚楽第(じゅらくだい・1586〜1595)・・わずか9年で滅びた豊臣政権中枢の居城。秀吉の絶頂期でもあり、動乱期でもあった

●聚楽(じゅらく)・・長生不老の楽しみを聚(あつ)むるもの


●1.聚楽第跡碑(じゅらくだいあとひ・写真3枚)と周辺(写真1枚)・・上京区裏門通中立売西南角 

聚楽第は、豊臣秀吉が平安京の大内裏跡(上京区)に建てた居住用の城です。天正14年(1586)2月に着工し、翌年の9月に完成しました。のべ6万人の人夫を動員し、京都の町を御土居(おどい)と呼ばれる土塁(どるい)と濠(ほり)で囲み、その中に聚楽第を築きました。五層の天守閣は邸宅というより城郭でした。至る所に金箔をほどこし、建物の軒先にも金箔の瓦が飾られました。当時の大名屋敷跡から金箔瓦が出土しています。聚楽第はひときわ華麗で目立ち、かつ侘びの精神も取りいれた桃山建築を代表する建物でした。


★【聚楽第工事を着工した1586年頃の秀吉(50才)・・関白太政大臣として高い地位にのぼりつめた頃だった】

★前年の天正13年(1585)
・・3月・紀州攻め成功。4月・丹羽長秀死す(信長の家臣、光秀・勝家・池田・滝川は既に他界)。4月・高野山金剛峯寺から刀をさしだすよう命令・・「刀狩り」、秋には大和の多武峰、京都の鞍馬寺にも「刀狩り」をする。6月・弟の豊臣秀長、甥の豊臣秀次隊、四国の長曾我部と戦う。7月・四国を得る。関白として天皇を補佐する最高位につく。

★着工した天正14年(1586)
・・4月・秀吉の妹朝日(44才)と家康(45才)、浜松城で婚儀。11月・家康、秀吉に警戒し、浜松から駿河に居城を移し京から遠ざかる。秀吉、太政大臣となる。



★【聚楽第での経緯】

★天正15年(1587)
・・秀吉、大坂より移りここで政務を行う。8月・家康を聚楽第に案内する。邸内に千利休の屋敷も造られ、10月・北野大茶会を催す。

★天正16年(1588)・・4月14日〜18日
後陽成天皇の聚楽第行幸は豪華を極めた。この時、全国の諸大名を参集し関白秀吉に忠誠を誓わせ権勢を示した。この時家康も上洛している。7月・全国に「刀狩り令」発布。10月・茶々姫(22才)懐妊する。

★天正17年(1589)
・・5月・淀君、鶴松出産。秀吉の弟・秀長、病に伏せる。

★天正18年(1590)・・9月・小田原攻め成功する。妹の朝日死す
(享年48才)。

★天正19年(1591)
・・1月・弟の秀長死す(享年52才)。
2月・葭屋(よしや)町の邸宅で
利休切腹。8月・長男鶴松死す(享年2才)・・不幸が続いた年 12月・関白職を甥の秀次に譲り、聚楽第は秀次の居城となった。自らは太閤となり大坂城に移る。

★文禄元年(1592)・・3月末・20万人動員した朝鮮出兵。7月・大政所、母なか死す(享年76才)。

★文禄2年(1593)
・・8月・
淀君(27才)男児(拾・ひろい・・後の秀頼)出産、秀吉(57才)。朝鮮出兵で4万人近い死者が出る。

★文禄3年(1594)・・秀吉、甥の秀次に不満をつのらせる。伏見城を秀吉の隠居城として着工する。

★文禄4年(1595)
・・7月・秀次高野山に追放され、切腹。8月3日・秀次の家族38人、三条河原で処刑。同日、
聚楽第は取り壊され、建物の大部分は伏見城に移築される。・・秀吉はこの3年後、他界する。

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