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史跡・ゆかりの祭り

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★聚楽城・武家地

●聚楽城・番屋敷跡(ばんやしきあと)

上京区七本松通東入る仁和寺街道下る

聚楽第警護の番屋敷があった辺り。地名として残っている。






●木村重成(きむらしげなり)邸跡

聚楽第の西南に位置する。上京区六軒町通り西入る下立売通り上る(古本屋の辺り)

木村重成(きむらしげなり・1593〜1615・享年22才)は、秀頼の小姓として育った。
豊臣秀頼と同じ年に生まれ、秀頼と同じ年に亡くなった豊臣の家臣。秀頼の唯一の幼なじみで、秀頼の信頼が厚かった。重成は元服すると豊臣家の重臣となり、重要な会議に出席した。大坂冬の陣(1614)では、後藤又兵衛と共に果敢に徳川軍と戦い、木村重成の名を全国にとどろかせた。しかし翌年の大坂夏の陣(1615)で、豊臣軍の主力として戦ったが、井伊直孝の策略にかかり、徳川軍に捕まり命を落とした。


●黒田如水(くろだじょすい)邸跡

聚楽城の東北に位置する。上京区一条通猪熊西入如水町・・地名として残っています

黒田官兵衛または、黒田孝高(1546〜1604・享年59才)の名で知られる。秀吉の右腕として活躍した武将。秀吉に自分が亡き後、天下を取られると危惧せしめるほど、武勇・知略に長けた有能な家臣だった。姫路城で黒田職隆の嫡男として生まれる。幼い頃から教養を身につけ文武両道の武士として、華道に通じたり、細川幽斎と連歌会なども行った。

1575年、官兵衛が30才の時、信長の家臣となった。家臣となってからの2年後の1577年、羽柴秀吉を総大将とした中国討伐が発せられ、一行が播州に到着するとすぐさま、官兵衛は姫路城を明け渡し、播州はほぼ織田家の領地となった。1582年6月、備中の高松城を水攻めしていた官兵衛は「本能寺の変」で信長が亡くなったことを知らされる。一計を秀吉に示し、毛利と和議をして全軍を撤退させる。この時、官兵衛は秀吉に光秀を即刻討ち、天下取りを進言したという説もある。

1587年、九州征伐の功で豊前12万石を加増される。1590年、小田原征伐では北条氏直の小田原城に入り、終戦交渉をし、とりまとめた。この時敵方の北条氏直からも刀を贈られ感謝されている。文禄2年(1593年)、朝鮮の役にも従軍、石田三成との確執で秀吉の怒りをかい、出家して「如水円清」と名乗った。
1600年の関ヶ原やそれ以降の官兵衛・長政親子の活躍で筑前52万石を加増され、福岡城を築いた。福岡城の完成を待たず59才で病死した。















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