万葉・奈良編       

           

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★万葉・奈良シリーズ17 

◆紅葉の談山(たんざん)神社1・・「大化改新」談合の地・鎌足ゆかりの神社  
奈良県桜井市多武峯(とうのみね) (2005.12.16)


◆談山神社の社号(名前)の由来
644年(「大化改新」の前年)、法興寺(飛鳥寺)の蹴鞠会で中大兄皇子(19才)と中臣鎌足(31才)は出会った。きっかけは
、蹴鞠の時、沓(くつ)が脱げてしまった中大兄皇子に、脱げた沓を拾いあげ差し出したのが鎌足で、それから二人は言葉を交わすようになったそうです。

二人はその後、藤の花が盛りの頃、談山神社本殿の裏山で極秘の談合をされた。
「中大兄皇子、中臣鎌足連に言って曰く。鞍作(蘇我入鹿)の暴逆をいかにせん。願わくば奇策を陳べよと。中臣連、皇子を将いて城東の倉橋山の峰に登り、藤花の下に発乱反正の謀を談ず。」(『多武峯(とうのみね)縁起』

そして翌年の645年に飛鳥板葺宮でその入鹿暗殺計画が実行される。多武峯(とうのみね)は談峯、談い(かたらい)山、談所が森とも呼ばれ、「大化改新談合の地」の伝統が残り、談山神社の名前がついた。


●ロマンと癒しの旅・・・藤原鎌足の説明  
●総社本殿(重文) 
●階段付近の紅葉






 














◆鎌足ゆかりの神社
中臣鎌足(推古22年・613〜天智8年・669)
は、神道の家に生まれましたが、家を盛り立てるために、家業の神道を捨て、官僚の道に進みました。669年5月5日、山科の狩りの際、落馬による骨折が原因で病床についた。天智天皇は鎌足の病が重くなった10月、自ら見舞い、後日、死の直前、大織冠内大臣いう人臣最高位と「藤原」の姓を鎌足に与えた。これが藤原氏の始まりです。

没後、御墓は摂津国阿威山に造られましたが、白鳳7年(678)、唐より帰国した長男定慧和尚が、鎌足公の一部を多武
峰に改葬し、十三重塔、講堂を建立し、妙楽寺を建てた。さらに、大宝
元年(701)方三丈の神殿を建て、鎌足公の御神像を安置した。これが談山神社の始まりだそうです。

鎌足亡き後、有能な調整役だった天智天皇と大海人皇子との間に確執が強まったとされます。そして 3年後の672年に「壬申の乱」勃発します。

●神廟拝所(重文)

鎌足公の御神像が安置されています。一般に公開されているので見ることができます。ここで、夏越しの中臣大祓式(6月30日)・年越しの中臣大祓式が行われます。右の写真は建物裏から撮影したもの。





















●蹴鞠(けまり)の庭・・けまりでなく、奉納コンサートの準備中でした
中大兄皇子と中臣鎌足の故事にちなみ、毎年神廟拝所の前で、春の蹴鞠祭(4月29日)・秋の蹴鞠祭(11月3日)が行われています。紅葉のシーズンなので、大勢の人が訪れていました。庭の前で即席の野点も。団体観光客の写真撮影も次から次へ・・・。

















●総社拝殿(重文)
けまりの庭をはさんで、神廟拝所の向かいにこの建物があります。コンサート前の調整中で一曲歌ってくれましたが、聞いたことのない歌でした。


















階段から総社拝殿を撮るとこんな感じになります。



















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