万葉・奈良編       

           

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★万葉・奈良シリーズ14 ◆甘橿丘(あまかしのおか)

入鹿邸出土・入鹿暗殺まで・・入鹿はどうして憎まれたか 


奈良県明日香村 (2005.12.3)



●甘橿丘

明日香の中心にある標高148mの小さい丘。丘といっても香具山が152m、耳成山が139mなので、大和三山と同じぐらいの高さです。写真は丘の入り口や周辺の景色。のどかな田園風景が広がります。甘樫丘は入鹿が645年に暗殺された飛鳥京跡の北西600mの地点にあります。丘から飛鳥京跡を見下ろすことができます。















●入鹿邸出土

2005年・11月13日に入鹿邸跡とみられる邸宅「谷の宮門(はざまのみかど)」が出土してまだ2週間余りです。7世紀の掘っ立て柱建物跡5棟が出土し、現地説明会に4000人も参加者がいるほど人気の遺跡です。当日も結構、人がいました。甘橿丘の東の麓とは一帯どの辺りか、ニュースを見てから気になっていました。「斜面に家なんか建つのかなー」・・と思っていたら、丘の入り口の平らな場所でした。車道にも近い場所でした。

644年11月に「蘇我大臣蝦夷(おおおみ えみし)と、子の入鹿は家を甘樫丘に並べ建てる。大臣の家は上の宮門、入鹿の家は谷の宮門という」と『日本書紀』に記述があるそうです。翌645年6月に入鹿が暗殺された翌日、父蝦夷(えみし)は、自邸と入鹿邸に火を放って自害したと書かれています。


★☆入鹿暗殺まで・・入鹿はどうして憎まれたか・・

★☆入鹿は、皇極天皇が即位したころ(皇極元年・642年)から、天皇側近の大臣(おおおみ)・蘇我蝦夷(そがのえみし)である父をしのぐほど、政治に関わりはじめた。父の穏便な性格に比べ、入鹿は勝ち気で周囲と摩擦を起こすような性格だったようです。


●天皇家への挑戦・・くり返し行われた入鹿親子の挑発行為

@皇極元年(642)、父蝦夷と自分の墓を生前に作った

蝦夷の墓・・大陵(おおみさぎ) 入鹿の墓・・小陵(こみさぎ)と称した。「陵・みさぎ」は天皇・皇后の墓に限られるが、臣下の身分で「みさぎ」と名乗った。しかも墓造りに、聖徳太子の土地である民を人夫として勝手に使用した。

A皇極2年(643)、皇極2年(643)、蝦夷が、病気の理由で大臣を引退し、天皇の許可なく、勝手に息子の入鹿に大臣(おおおみ)の地位を譲ってしまった。

B皇極3年(644)、甘橿丘に家を建て、父の家は上の宮門(うえのみかど)、入鹿の家は谷の宮門(はざまのみかど)と呼び、みかどとは皇居のことだが、わざわざ「みかど」と称した。そして子供たちを王子(みこ)と呼んでいた。


●皇極帝の皇太子候補を襲撃、滅ぼす・・・・天皇家の人々、地元の民も震撼する

皇極2年(643)、入鹿が皇太子候補のひとり、山背大兄王(やましろのおおえのおおきみ)の斑鳩宮を攻撃し、一族を滅ぼす。この時、中大兄皇子ら天皇家の人々は入鹿の残虐で、大胆な行為に震えあがり、危機感を感じたそうです。


★『日本書紀』による当時の民の民謡 ・・入鹿は民に評判が悪く、山背大王は民の人望が厚かったという)


『岩の上に 小猿米焼く(こざるこめやく) 米だにも 喫げて(たげて)通らせ 山羊(かましし)の小父(おじ)』

(入鹿が、山背大兄王の宮を焼こうとしている、大兄王よせめて米だけでも食べてお逃げなさい・・

岩の上・・斑鳩宮  小猿・・猿に似た入鹿  米焼く・・斑鳩宮を焼く  山羊の小父・・ヤギに似たやましろのおおきみ

















●展望台からの眺め・・さわやかで気持ちがいいです

甘橿丘の舗装道路を登ると、展望台に着きます。周辺の紅葉がきれいです。遠く畝傍山や耳成山が見えます。


























    

           

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