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2005.5.22 金沢市

★珠姫(たまひめ)の寺・天徳院

前田家菩提寺・曹洞宗


百万石の危機を救った、美しくも悲しい珠姫(たまひめ)の遺徳を偲ぶ寺


「天徳院」・・元和9年(1623年)、に加賀藩三代藩主・前田利常公が正室・珠姫(享年24才)菩提のため、金沢城の東(小立野台・こだてのだい))に四万坪の敷地を定めて天徳院を創建した。珠姫の遺骨を分骨して、この金沢の地と和歌山の「高野山・天徳院」の二つに珠姫の菩提寺を建てました。「天徳院」は珠姫の戒名から付けられました。


荘厳な山門 

●天台宗の寺から移されたという、当院で最も古い仏像、仁王尊像は魔除け招福の守り尊です。


















珠姫・・慶長4年(1599)6月、徳川二代将軍秀忠公の二女として生まれました。秀忠の長女の千姫は、豊臣秀頼室に、長男の家光は三代将軍となりました。

珠姫らの母は、浅井長政と織田信長の妹の小谷ノ方との間に生まれた、崇源夫人です。この崇源夫人の妹が豊臣秀吉側室の淀君です。

前田家では、その頃、藩祖の利家公が亡くなり、二代藩主利長が加賀の国を治めていました。その間には前田が徳川を討つ・・という噂が流れました。家康公は大変驚き、軍勢を集めて前田を攻めようとしました。
利長はそのような計画は一切無いことを説明し、その証に利長の母、おまつ(芳春院)を人質として江戸に送り、かわりに珠姫を利常の嫁として受けることを約束しました。

◇珠姫はわずか3才で、前田家に嫁ぎました。江戸から金沢までの珠姫の行列は、1日平均5.6q・90日の行程で行われました。秀忠や崇源夫人、江戸城の人たちは淋しい思いをされたと思います。行列は美しく華やかですが、哀しい行列でもあります。幼い娘を遠くの地に送り出すには相当の覚悟が必要だったと思います。



◇珠姫様 

◇珠姫様御手作りの紙雛人形
・・前田家家臣石黒家に代々、家宝として伝えられています。利常9才・珠姫3才の幼い男雛・女雛かもしれませんね。








◇珠姫様の一生

珠姫が14才になった年、20才の利常と結婚しました。2人の間には、3男4女が生まれました。1人の養女を含めて8人の子どもの母親になりました。元和8年(1622)、4女の夏姫を出産した後、体調すぐれず、24才でこの世を去ります。幼い子どもたちを遺して24才という若さで旅だった珠姫を悲しんで利常は号泣したそうです。利常は翌年に、菩提を弔うための「天徳院」を建てました。加賀百万石の華やかな歴史の中にこのような悲しいできごとがあったのですね。

◇からくり人形「珠姫・天徳院物語」・・「そなたが金沢に来てはや、20年。珠が江戸と加賀の虹の架け橋じゃ・・・今宵は2人きりの夜をゆっくり楽しむまいか・・」


このお寺では1日4回、からくり人形が上演されています。ちょうど上映時間に着いて、鑑賞することができました。利常や珠姫、子どもたちが登場します。



美しい境内・境内でお抹茶も飲めます。寺の中には珠姫の打ち掛けなどゆかりの品々も展示されています。






























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