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2005.5.10 

★「4LDKの立派な足軽屋敷」
(金沢市)

●足軽屋敷(高西家・清水家)
           

足軽は鎌倉時代からいたようですが、戦国時代に団体戦闘要員として広く活躍するようになります。この頃は豊臣秀吉のように、功名を立てて、出世するのも夢ではありませんでした。

しかし、平和な江戸時代になると今でいうリストラにあい、少人数に制限され、武士最下位層に位置づけられ、内職に追われる多忙な日々を送りました。

前田家は代々、家臣を大事に扱い、足軽たちに庭付き一戸建ての家を与えました。足軽小頭は70坪、足軽は50坪の敷地に住んでいました。

10年前まで使っていた屋敷を移築し、最近「足軽資料館」としたそうです。

◇座敷・・・接客用

◇床の間・・掛け軸は
菅原道真公・・前田利家は道真の末裔と信じられてきているそうです。

◇納戸・・日用品をおいたり、寝る部屋。

◇鍵の間・・菅笠張り、糸つむぎ人形作りの内職の部屋

◇庭・・観賞用というより、自給自足用の野菜や柿やイチジクなどの果樹が植えられていました。

◇厠・・玄関の横が家人用、縁側が客人用と分かれていました。






























◇流し・・炊事場 

◇茶の間・・・箱膳による食事。子どもから祖父母まで3代そろって食事をします。江戸の初期は1日2回の朝夕だけ。一汁一菜。米の量は、おかずが少ないぶん、今より多く食べていたそうです。1日3回になるのは、江戸中期からです。この頃から旬のものも出回り、おかずの量が増えて食生活が豊かになってきたそうです。

◇天間(あま)・・・足軽屋敷は、2階建ては禁止されていました。江戸時代、足軽に限らず宿屋など特殊な建物以外は平屋が原則でした。収納スペースを確保するために、屋根裏収納を造りました。これが「天間・あま」です。今のロフトと同じ発想です。子どもたちはここに畳をひいて部屋として使っていたそうです。















●西茶屋資料館

犀川を渡ると、
「西茶屋資料館」があります。茶やとは料亭のことです。かつての料亭「吉米桜・よしよねろう」跡地に資料館を造り、当時を再現しました。2階には芸妓さんの使っていた三味線や太鼓もおかれていました。今でもこの辺りに24人の芸妓さんがいるそうです。(市内、街中に大規模な東茶屋街もあります。)

◇室生犀星の生家がこの近くで、生家跡に建てられた記念館があります。室生犀星はこの犀川を眺めながら育ちました。
「ふるさとを遠きにありて思う心」は、この辺りで育まれたのですね。






























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