◆◆平安ゾーンU ◆平安時代の史跡・人々(藤原道長、源義経、後白河法皇etc)
2005.5.3 石川県・小松市
安宅(あたか)の関@
●安宅(あたか)の関守は、心が「あったか」い
◆歌舞伎十八番「勧進帳」(かんじんちょう)、能・「安宅」(あたか)で何度も上演されている美談
◆かばう弁慶(智)・逃す富樫(仁)・耐える義経(勇)
義経は、兄頼朝に追われ、奥州平泉の藤原氏の元へ落ち延びようとしまし
●小松市は歌舞伎がさかん
毎年、5月中旬に行われる「お旅まつり」の子ども(小中学生)歌舞伎は、奉納神事として240年の伝統があります。また、小松は「全国歌舞伎フェスティバル」の開催地にもなっています。わが国の伝統や文化を次代にのこしていく活動はすばらしいと思います。
■安宅の関の物語とは・・
「頼朝は義経を捕らえようと、全国各地に臨時の関所を張り巡らします。
安宅の関守は、富樫(とがし)左衛門。富樫(とがし)に包丁をとがしたら、全国一だったという。文治3年(1187)3月頃、山伏姿に変装した義経一行が安宅の関にさしかかりました。
一行は、関守の富樫から疑われると、弁慶は機転をきかし、「東大寺復興勧進のため、諸国を廻る役僧」と称し、寄付帳の勧進帳(何も書いてなかった)を広げ、勧進の主旨を大声で空読みしました。
強力姿の義経がとがめられようとすると、疑念を晴らすため、弁慶は義経に、金剛杖で打ち据えます。富樫は弁慶の忠誠心にこころをうたれ、義経と知りつつ、一行の通行を許しました。」
この富樫がここで、義経を捕らえていたら、実に平凡なストーリーとなります。美談にはならず後世に語り継がれることもなかったでしょう。奥州の藤原氏もまた違う運命展開になっていたかもしれません。
「勧進帳」は、7代目市川團十郎が天保11年(1840)に歌舞伎十八番の内として上演して以来、人気の高い演目になっています。
●義経一行は比叡山延暦寺にかくまってもらったあと、福井県の北陸道を通り、日本海側のコースをとりました。安宅の関所は復元されていません。なぜかというと、臨時の仮の関所だったからです。
●安宅の関址の碑とその周辺
●義経・弁慶・富樫の銅像
●海岸に近いので松が多い。松の花粉もバサバサ落ちていました。
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