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◆◆戦国武将の館T. ◆武田氏◆真田氏 2005.4.17

★川中島合戦戦国絵巻A

(武田信玄8000・高坂弾正12000、計20000)VS(上杉謙信13000)

           
◆武田二十四将・小幡豊後守昌盛(おばたぶんごのかみまさもり)



























◆第4回川中島合戦・激突
(永禄4年・1561.9.10)
までの過程

信玄は謙信の上洛中、北信濃の大半を支配、越後に侵入。永禄3年(1560)、海津城を築いて、高坂弾正昌信(こうさかだんじょうまさのぶ)に守らせ、川中島方面の確保と北方整備の最前線基地として謙信に備えていた。信玄は、甲府の現、武田神社一帯の「つつじが崎館」で情勢を見守っていた。

◇1561年8月15日
・謙信が大挙して妻女山(さいじょさん・現、松代町・海津城の近くの山)に布陣して海津城に迫った。

武田の通信手段・「飛脚篝火(ひきゃくかがりび)」・・海津城を守っていた高坂弾正はただちに急を信玄に知らせた。謙信動く」の狼煙(のろし)通信は、140q(長野〜甲府)をわずか2時間で走ったという

謙信布陣の知らせが、信玄のいる館に届いたのは2時間後であった。甲府のつつじが崎館から国境まで8方向に通信網が張り巡らされていた。

◇8月18日
・信玄、1万の軍勢を整えて甲府を出発
◇8月24日
・信玄、八ヶ岳麓・諏訪・上田経由で川中島に到着
◇8月29日・信玄、海津城に兵を収める。10日間、妻女山(さいじょさん)にいる謙信と対峙した

◇武田の「きつつき戦法」(押し出し戦法)始動
●9月9日・夜半に武田方・高坂弾正(こうさかだんじょう)率いる1万2000
の軍勢が海津城を出発。上杉軍のいる妻女山(さいじょさん)の裏手にまわり、暁を期して一気に攻撃して、追いだされる上杉軍を、信玄公率いる8000の軍勢が八幡原で迎え討つという戦法であった。

●上杉軍に見破られた「きつつき戦法」
・・この「戦法」「先方」に裏をかかれてしまう。信玄が到着する前に、上杉軍が合戦場となった川中島・八幡原に既に布陣していた。上杉軍も二手に分かれていた。

◇1561年9月10日、暁(午前6時)の決戦・・

千曲川(ちくまがわ)と犀川(さいがわ)に挟まれた川中島は一面の霧でわずか数百メートル先の敵陣がまったく見えなかった
・・・・・・・・・・・。


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