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◆◆戦国武将の館T. ◆武田氏◆真田氏        

      
★川中島(かわなかじま)古戦場2. 2005.4.3   

(長野市川中島、松代町の近く)


◆三太刀(たち)七太刀(たち)之跡

謙信は乱戦で武田本陣が手薄になったのを見て、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲した。馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。後でこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎打ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。

◆逆さ槐(えんじゅ)・・信玄本陣のあった場所

山本勘助の進言による「キツツキ戦法」の採用を決定した信玄は、永禄4年(1561)9月9日夜、ここ八幡原に上杉軍挟撃の陣地を構えた際、この場所に土塁を積み重ね、矢来を組み、楯をめぐらして本陣をおいた。このとき土塁の土止めに自生のエンジュの根を逆さにして、杭を打ち込んだのが芽を出して、その後、400年を経て巨木となった。辺りに低い土塁の跡が見える。これは信玄本陣を示す枡形陣形跡である。


◆首塚 

この碑の下の塚は首塚といわれ、この合戦後、武田方の海津城主であり、武田二十四将のひとりである
高坂弾正(こうさかだんじょう)が激戦場となったこのあたり一帯の戦死者(6千余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚である。この処置に感激した上杉謙信は、後年塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれ、乱世に咲いた美学とほめたたえられた。



◆田中月亀(げっき)翁親父子の歌碑

田中月亀は本名亀太郎、長野市東北の人で松代藩主・真田幸教(ゆきのり)に仕え、学問に熱心で歌道にも長じていた。その子亀作も亀守(かめもり)と号し、風雅の道で知られていた。この歌碑は、田中父子の和歌をしるしたもので、表の和歌は、川中島の大激戦の様子をしのび、裏の和歌は大合戦の終わった後のここ八幡原一帯の情景を歌ったものである


(表)  
跡しのぶ 川中島の朝あらし いぶきのさ霧 おもかげに見ゆ 月廼亀麿(つきのかめまろ)

(裏)  
月影の入りにし後(のち)も ほととぎす ひとこえ残す 小島田の里 月廼亀守(つきのかめもり)


◆古戦場付近の様子・・
壮絶な戦いが繰り広げられた合戦場は、整備され静寂な雰囲気が漂う



















●公園の一角で流し雛の催しが行われていました・・長野県の雛節句は4月に行われます。















●野点も行われていました・・のどかな雰囲気が伝わってきます





●川中島のお店で売っていた信州のりんご

酸味がありとてもおいしいです








◆古戦場のお店

●そば処の旗

●「風林火山」(武田氏・孫子の旗)や「毘」(上杉氏の守護神・毘沙門天に由来)の旗

店の前に旗が並んでいました。いかにも川中島らしい雰囲気が伝わってきます


















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